聖 書:ルカによる福音書22章14~20節
22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。
22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

「最後の晩餐」といえばレオナルド・ダ・ビンチによって描かれた絵画が有名である。ミラノにある修道院の壁画は420×910㎝という巨大ものだ。この絵はヨハネ13:21から題材をとり、イエスが「12弟子のひとりが私を裏切る。」と預言した時の情景と言われる。本日は福音書の最後の晩餐の記事から、教会で行われてきた主の聖餐の過去・現在・未来における意義について考える。受難週の来週に行う聖餐式がことさらに意義深いものになるだろう。

1. 過去―キリストの死による救いを記念して
 聖餐式はプロテスタント教会の礼典である。はじめての聖餐はイエスが十字架にかかる前の晩、過越しの食事のなかで定められた。イエスは十字架で苦しみをお受けになる直前に、弟子たちと過越の食事をすることを切に願われた(15)。食事が始まるとイエスはパンを取り、それをさいて弟子たちに配りながら「わたしを記念するため、このように行いなさい」(19)。と言われたことによって、キリスト者はそれを守り主の聖餐として重んじる。
イスラエル人にとって過越は、神が彼らをエジプトの奴隷生活から救い出されたみわざを思い起こし喜び、神のあわれみを記念して感謝と賛美をささげる繰り返し行われてきた。イスラエルの民がエジプトの苦役から逃れたように、イエスを信じるだけで恵みにより、かつての罪の生活から解放され、神のさばきから免れたことを感謝し記念する。
聖餐はただ過越ばかりではなく、新しい契約の成就でもあった(20)。それは旧約聖書でエレミヤが預言した通りである(エレミヤ31:33~34)。わたしたちは人の罪の身代わりとして、神の御子が十字架にかかり流された血により罪赦された。律法によれば「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル9:22)のである。エレミヤが預言したように、わたしたちは救われたことで新しい心が与えられた。
聖餐の中心的な意義とは、わたしたちのために十字架で死なれたイエス・キリストの恵みを忘れないでいつでも思い起こすことである。さらにパウロが言ったように「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(Ⅰコリント11:26)。わたしたちは聖餐によって「主の死を告げ知らせる」という宣教の使命に立ち返る。聖餐は主が再び地上にこられる時まで主を信じる者の間で続けられる。

2. 現在―キリストを信じる教会の一員として
 かつてイスラエル人は過越の食事を共にすることによって、自分たちが神の民であることを自覚できた。キリスト者は聖餐を通して、キリストを信じる信仰においてひとつとされていることを確認する。イエスはひとつのパンを「感謝してこれをさき、弟子たちに与え」(19)られた。かつて主は「わたしが命のパンである。」(ヨハネ6:35)と言われた。わたしたちは同じパンを食することで、主のいのちに預かり互いもまた一体となる。ぶどう酒も小さな杯に等分に分けられ「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ26:28)と言われたイエスのみ苦しみを覚えて共に飲み干す。聖餐によってキリストを信じる教会の一員としての自覚を新たにし、全員が一致してこの年も宣教に励もう。

3. 未来―神の国が完成する喜びの祝いとして
 過越がメシヤを待ち望むものであったように、最後の晩餐で聖餐を制定した主は「神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」(ルカ22:16)と言われた。神の国が完成し救いの時が満ちたとき、やがてイエスと共にもう一度喜びの祝宴にあずかるという約束を待ちわびながら、わたしたちは今、聖餐にあずかる。