聖 書:詩篇32篇1~11節
今年度は「キリスト者の信仰」を取り上げます。この主題は「新生、聖化、神癒、再臨」、「義認、聖化、栄化」、などに分類されます。今回は「救い(6回)、聖化(6回)、栄化(4回)」を予定しています。「救い」は段階的ではなく同時期に行われる神の恵みです。最初は「罪のゆるし(赦罪)」です。
Ⅰ.原罪と犯罪
詩篇32篇と51篇はダビデの懺悔の詩です。ダビデの罪は姦通と殺人教唆という犯罪です。彼はその時の心境を「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」(32:3)、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」(51:5)と原罪を認めています。原罪とは最初の人であるアダムとエバが犯した罪を指しています。要約すれば「神への不従順、自己の欲望の追求、他人への責任転嫁」となります。彼らの罪が原罪と呼ばれる理由は、人類最初の罪であり、エデンの園からの追放という神との分離をもたらしたことにあります。人間は罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。原罪が原因で、犯罪はその結果なのです。
Ⅱ.ダビデの罪(サムエル下11章参照)
ダビデの罪は卑劣きわまるものです。当時イスラエルはアンモン人やスリヤ人との戦いに全軍を遣わしていましたが、彼一人が王宮に残っていたのです。王宮の屋上から彼の目に映ったものは「女性の湯浴み姿」でした。彼は彼女を王宮に招き入れ、関係を持ち孕ませます。彼は夫ウリヤに転嫁するために帰還させようとしますがウリヤは拒否します。そこで彼はウリヤを戦場の最前線に出し討死にさせました。聖書は「しかしダビデがした事は主を怒らせた」と記しています。彼の犯罪には「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」(Ⅰヨハネ2:16)という原罪が潜んでいることが分かります。
Ⅲ.認罪と悔い改め
「罪のゆるし」は心の変化と良心の呵責から解放する恵みです。この恵みに与るためには認罪が必要です。彼は予言者ナタンによって罪が示された時、「わたしは主に対して罪を犯しました」(サムエル下12:13)、「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった」(32:5)と告白し、ナタンは「主もまたあなたの罪を除かれました」と宣言しました。彼は「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」(32:1)と証しているのです。この認罪と悔い改めは、人間的なわざではなく神の言葉を通して働かれる聖霊のみわざです。聖書は①「罪は緋のようであっても、雪のように白くなる」(イザヤ1:18)、②「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」(詩篇103:12)、③「罪を海の深みに投げ入れ」(ミカ7:19)、④「不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31:34)、⑤「雲のように吹き払い、霧のように消した」(イザヤ44:22)と宣言しています。
本日は受難週礼拝です。イエス・キリストの十字架の贖いの恵みを深く黙想させて頂きましょう。