聖 書:ヨハネによる福音書 第1章9~13節
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

アンデルセンの童話に「みにくいアヒルの子」があります。この話は白鳥の卵が何らかの理由でアヒルの卵の中に紛れ込みます。孵卵した姿が醜かっために他の雛からいじめられます。辛い思いをしながら成長する中で、実は自分が白鳥であったことを知る、という話です。この話から「人を外見で判断してはいけない」とか、「自分の中に秘められた可能性にフタをしない」というような教訓が読み取れます。しかし私は「みにくいアヒルの子」の中に、罪人であり、悪魔の子であった者が「神の子とされる」という特段の恵みを重ね見たいと思うのです。

Ⅰ.神の子の身分
「神の子」と言う言葉は、イエス・キリスト(Son of God)を表す場合と、信者(sons of God)を表す場合に使われています。「神の子」という身分はイエス・キリストにとっては本質ですが、信者にとっては信仰によって与えられる神の賜物です。本質と賜物との違いはあっても、イエス・キリストと同じく「神の子」という名称や身分を与えられ、更に「神の家族」の一員としされていることは本当に有り難いことです。パウロは「もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:19)と明言しています。そのためにイエス・キリストは「彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」で、「民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」(ヘブル2:17)のです。

Ⅱ.神の子とされる条件
当時の選民ユダヤ人は「まことの光」としてこの世にこられたキリストを拒絶しました。しかし、「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力が与えた」のです。彼らは「血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず」、つまり血統や名誉や財産や良い行為と言うような一切の条件が排除され、「ただ神によって生まれた」のです。ヨハネは晩年になって「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。」(Ⅰヨハネ3:1)と諭しています。パウロは「この世で無きに等しい者を、あえて選ばれた」(Ⅰコリント1:28)、「神の子たる身分を授けるように・・愛のうちにあらかじめ定めて下さった」(エペソ1:5)と記しています。

Ⅲ.神の子としての特権
神の子とされる特権は、第一に「奴隷の霊」(ローマ8:15)から解放され、「子たる身分を授ける霊」(ローマ8:15)を受けます。こうして私たちには「神の子」という新しい身分を受けるのです。第二に「神の相続人」(ローマ8:17、ガラテヤ4:7)とされます。第三に「神の御霊に導かれ、歩き、生き、進む」(ローマ8:14、ガラテヤ5:16,25)者とされます。第四に「御霊の実」(ガラテヤ5:22-23)を結ぶ者とされます。第五に「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている」(Ⅰヨハネ3:2)のです。

聖書は「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ2:8)と教えています。私たちはただキリストを信じる信仰によって救われ、神の子とされたのです。この信仰さえもが神からの賜物なのです。