聖 書:マタイによる福音書 第13章1~9、18~23節
13:1 その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
13:2 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
13:3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」。13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
今日は四つの種の話です。種は手のひらに隠れるくらい小さなものですが、その中にはいのちが詰まっています。いのちは悠久の時間を経て受け継がれるのです。「大賀ハス」といわれる有名な実証例があります。1951年(昭和26年)千葉県の検見川にある落合遺跡で古代のハスの実が発掘されました。発掘当時で二千年前以上と推定されたハスの実は見事に発芽して開花しました。
1.悪い地に落ちた種と良い地に落ちた種
イエス様がガリラヤ湖のほとりに座っています。そこへイエス様を見つけた群集が話を聞くために大勢集まってきました。するとイエス様は舟に乗り込み座って静かにこのたとえ話を始められました。群集は興味深げに身を乗り出して岸辺にたたずんで話に聞き入りました。イエス様はたとえ話がお上手でした。誰でもわかるやさしい話なので話に引き込まれましたが、意味するところは深く聞く人に驚きを与えました。畑で農夫が種をまいていました。ゴッホの名画に「種まく人」があります。農夫はふところの袋から種を一つかみ握るとぱぁっとまいています。まいた種のいくつかは風に乗って畑ではなく道端にポトリと落ちました。するとエサを狙っていた鳥がこれ幸いとばかりに食べてしまいました。つぎの種が落ちたところは岩地に落ちました。岩ばかりで土が深くはなかったので種から芽はすぐ出てきました。ところが日が昇ると葉が焼けてしまい、根が深く張っていなかったので枯れてしまいました。別の種は落ちたところはいばらが生い茂っている場所に落ちました。種は目が出て生長しようとしても、先にいばらが伸びて塞いでしまいました。
別の種は生育に適した良い環境に落ちたので、すくすくと伸びてたくさん実を結びました。良い地に落ちた種からの収穫は、百倍にも増えたものがあり、六十倍から少なくとも三十倍になりました。同じ種であってもそれが落ちた土地によって、その後の成長に大きく違いがありました。
2.みことばの種が豊かに実を結ぶ
一粒の種がどんな土地にまかれるかによって、実を結ばない種のままで終わるか百倍もの収穫につながるかが変わります。たとえ話に出てくる種とは「御国のことば」つまりみことばです。小さな種の中にはいのちとなる要素が詰まっています。しかしこの素晴らしい種も良い土地に植えられて始めて豊かな実を結ぶのです。種が落ちた土地とは人の心の状態をたとえたものです。つまりみことばの種が生長するか否かはその人の心の状態次第であることを示しています。14節のイザヤの預言が示すように、みことばを聞いても悟らず実を結ばない人は多いのです。
道端の心とは、道のように踏み固められたところはみことばを聞いてもはねのけてしまい、心に残ることはありません。すると悪い者がきて地表に落ちた種を鳥が奪うように取り去ります。石地の心とはみことばを聞くと喜んですぐに受け入れますが、困難や迫害が起こるとみことばを忘れ信仰を失います。理由は根がないためです。神とみことばに深く根ざすことが大切です。いばらとは思い煩いと富の誘惑が心にはびこると生長は止まり実を結ぶことはできません。しかし心が良い地であるなら、みことばを聞いてその意味を自分に当てはめて(適用する)悟ります。その人は語る言葉と行いに違いが出てきます。みことばのいのちの種がわたしたちの心で育まれて、豊かな愛の実を結ばせるのです。