聖  書:ヨハネによる福音書 第9章24~34節

9:24 そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
9:25 すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。
9:26 そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。
9:27 彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。
9:28 そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
9:29 モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
9:30 そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
9:31 わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
9:32 生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
9:33 もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
9:34 これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。

ヨハネ福音書を読み進めてきた。今朝の9章も長い箇所になる。

Ⅰ.9章の話の流れ
9章は一つの話の流れになるが、2つに区分される。
1)1~12節「盲人の癒し」イエス様と弟子たち一行はエルサレムで生まれつきの盲人に出会われた。イエス様は神のみわざが現れるためにと語られ、つばと泥をこねたものを作られシロアムの池に行って洗うように命じられた。その通りになった。
2)13~41節「見えるという罪」この癒しがなされて、大きな論争になる。この日が安息日で働くことは許されていなかったのでパリサイ人たちは怒った。

Ⅱ.人は凝り固まりやすい
ここに凝り固まった考えを持つ人たちが多数出てくる。? 2節で、弟子たちはこの人が盲人なのは罪の結果だと言った。因果応報の考えであり、悪い行いは悪い結果を生むと考えている。困難が降りかかってきたとき、その人の良し悪しとは関係はないことが多い。因果応報は人を恐れに縛りつける愚かな考えである。? 9節では、癒されたのは盲人であるのか、ないのかと言い争っている。この盲人が癒されることは起こらないと考える人が違うと言っている。目に見える大いなる奇跡が起こったのに信じようとしない愚かさがある。? 16節では、安息日に癒しを行ったイエス様を罪人だとパリサイ人が主張する。生まれながらの盲目が癒されて、初めて光と色彩にあふれた美しい世界を見た人を喜べない。戒めを守るということに愚かにも凝り固まっている。? 21節では、癒された人の両親が無関係を装っている。村八分、仲間外れが恐ろしかったのである。人目を恐れる思いに凝り固まっている。私たちは何かの恐れに捉われ、手近なものを唯一正しいと信じ込み、真理を見失いやすいものである。

Ⅲ.自由で柔らかな考え方を持つ
今、見てきたように、ここに多くの偏見、独善がある。この話の中、公正で、広く、自由に物事を受け止めた人は、癒された盲人である。生まれた時からずっと暗闇に閉じ込められてきた。物乞いをしなければ生活できなかった。悲惨な境遇にいたが、この人ほど素直に、自由に歩んだ人はいない。権威あるパリサイ人がどう言おうが、イエス様は神様が遣わした方であると信じて揺るがず。社会からつまはじきにされようとしても、自分の信念を曲げることはなかった。イエス様を崇め、信じ、礼拝した。この人の目は決して曇っていなかった、神様を見ることのできる澄んだ目をしていた。

私たちはどのような目で物事を見、神様を見ているだろうか。いつも正しい目で見ることができるように、御言によって神様の御心を知っていこう。Cf.渡辺善太師は、教会は風見鶏ではなく指南車であれと言った。… 私たちも日々の生活で、正しい方向に導かれるように神様の御言の指南車を持とう。