聖 書:ヨハネによる福音書 第11章23~27節、39~44節
11:23 イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。
11:24 マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。
11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
11:27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

11:39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
11:40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
11:41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
11:42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
11:43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
11:44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

今日は「召天者記念礼拝」です。故人の人となりや在りし日の思い出を懐かしむと共に、わたしたちはこの聖日をいつかは訪れる自分の死に向き合う時を持ちましょう。キリスト者は十字架の死から三日後によみがえられたことで、死に完全に勝利したイエス・キリストを信じて救われた幸いな人です。私自身救いによって死はとらえどころのない忌み嫌われるものではなくなり、死をいたずらに恐れずに目をそらさないで、平静な心で受け止めることができるまでに変えられました。とは言え、死に至るまでには筆舌に尽くしがたいと思われる苦しみと襲い来る恐怖を味わうであろうことには相違ありません。しかしキリスト者は死線を越えて、天の御国に入る揺るぎない希望を抱いています。地上の暮らしはそこに到るまでの仮住まいです。

1. 死の正体とはなにか
イエス様はベタニヤのラザロを心から愛していました。重い病気になったことも承知していました。イエス様がすぐに病者のもとに駆け付ければ瀕死の重病人でもたちまち癒すことがおできになったでしょう。しかしこのときイエス様にはある計画がありました(15)。それはイエス様が死の壁を破り、もう一度人のいのちをよみがえさせる力をもつ神の子であることを信じるさせるためでした。死んで墓に埋葬され四日も経ったラザロをイエス様がよみがえさせることで、それを目撃した人々が神様をあがめ救い主を信じるためでした。
では人はなぜ死ぬのでしょう。死の根本的な原因はどこにあるのでしょう。人は寿命だから死ぬのではありません。病気や事故によってけがしたから、死ぬのではないのです。聖書は死は人間が持つ罪こそが根本原因であると教えています。
「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)。盗みや人を殺すことなどはあくまで罪の行為であり罪そのものではなくて罪の結果です。罪を犯したから罪人なのではなく、すべての人は生まれながらにして罪を持っています。全知全能の神様からすれば、人の目には聖人君子に見えても紛れもない正真正銘の罪人です。罪のために逃れられない人が負うべき宿命、これが死の正体です(ヘブル9:27)。

2. よみがえる、いのちとは
イエス様がベタニヤに到着した時には、ラザロはすでに亡くなってマリヤとマルタをはじめ村全体は、あらがうことのできない死という敵によって悲しみに打ちのめされていました(21、32)。墓に向かうイエス様をあからさまに侮る者もいました(37)。イエス様はご自分をそしる人々を制して、「石をとりのけなさい。」と言われた後に、天の神様に祈り先取りの感謝をささげました(39)。わたしたちは心からあきらめという不信仰の「石」取り除かなければ、死人をよみがえさせる神様のみわざを拝することはできません(40)。
福音書にはイエス様が死人をよみがえさせる奇跡を三回しるしています。やもめの息子のよみがえり(ルカ7:11~17)、「タリタ、クミ」が有名なヤイロの娘のよみがえり(マタイ9:25、マルコ5:41、ルカ8:54)、そしてラザロのよみがえりの記事です。これらはすべて、十字架の死からよみがえる神の子イエス・キリストの予表です。天国は罪がないきよい場所です。もし天国が罪人のままでも受け入れられる所なら、もはやそこは天国ではあり得ません。人は死んだ後、神様のさばきの前で罪無しと認められなければ、決して天国に入ることはできません。イエス・キリストはすべての罪人に神の赦しを与えるため、神であられるのに人として生まれ、わたしたちの身代わりに罪を担い十字架で死なれました。イエス・キリストを罪からの救い主と信じる者には死で終わらない永遠の命が与えられます(ヨハネ11:25~26)。