聖 書:詩篇 第3篇1~8節
3:1 主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、
3:2 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。
3:3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。
3:5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
3:6 わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。
3:7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。
3:8 救は主のものです。どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように。

年末に、1年間の歩みを振り返ることは有益である。特に印象に残った出来事を思い返し、その中で感じたこと、教えられたことや意味を考えることを通して、神様のご配慮や導きに新たに気づかされることが少なくない。イスラエルの王として絶頂も苦難も経験したダビデは、極度の苦しみの中で神を見上げ信頼する中で、勝利を確信していった。この年末感謝の礼拝で、ダビデの信仰と祈りから学びたい。

1.敵の中で(1-2)
 詩篇3篇の背景とされる出来事は、ダビデの息子アブサロムの裏切りである(サムエル記下15-17章)。アブサロムは王であった父に反旗を翻し、自分が王に即位してしまう。その背景には、アブサロムが自分の妹タマルをはずかしめたアムノンに怒りをいだき、殺害したことで父ダビデとの関係が悪化したことがあった。さらにその前には、王国を統一してまさに絶頂にあったダビデが、ウリヤの妻バテシバと姦淫の罪を犯し、ダビデは悔い改めたものの、バテシバが生んだ子どもが生後すぐに命を落とすという悲劇もあった。ダビデは、エルサレムを離れて息子から逃亡する。自分と最も近い、大切な関係において裏切られ、命の危険の中を通った。彼にかつて仕えていた部下で、敵に寝返った者もいた。あまりにも敵が多く、もはや「神の助けがない」「神から見放されている」と言われ、まさにそう考える方が自然と思えるくらいの状況であった。

 2.しかし主よ(3-7)
 3節の「しかし主よ」という言葉で、目線が全く変わっていく。神が盾となってくださり、自らの名誉を回復してくださり、逆境から回復してくださるという信仰告白である。彼はまた、自分が本来いるべき場所、本来礼拝をささげるべき場所(エルサレム)に、神が必ず自分を置いてくださるという信仰を、この苦境の中でも持っていた。信仰者としての軸がぶれていなかった。なぜ、ここまでの信仰を持てたのか?彼は大きな失敗もしたが、悔い改めることから逃げずに生きたがゆえに、痛みがあったとしてもその信仰は曇らなかったと思われる。7節の「あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られる」というのは、勝利をすでに確信している祈りである。この信仰と祈りを、神は聞き入れてくださったのである。悔い改めから逃げることをせず、常に神との交わりにとどまることは、信仰の歩みを豊かにさせていただく秘訣である。

3.救いは主のものです(8)
 結びとして、ダビデは回復の確信のもとに「救いは主のものです」と告白する。息子の謀反という問題の解決、そしてエルサレムに戻った後の国の回復、民への祝福を祈る。この祈りは王として、父親としての責任を自覚して主のあわれみを求める祈りであった。常に、真の救いは神からのみくるという認識からの祈りであった。

ダビデは自分の責務として、自分の治める共同体(国)が、平和であることを祈った。今日を生きる私たちが、もし共同体というものを覚えて祈るなら、それは教会のための祈りであり、この世界に神のあわれみが注がれることを願う祈りとなるであろう。神様の愛は、聖書の言葉と愛の行いによって、教会からこの世に発信され、伝えられていく。「救いは主のものです」という言葉は、キリストのからだである教会と、そこに連なるキリスト者以外から発せられることはない。

この1年間も私たちは様々なところを通った。時にはいるべき場所から、あるべき神様との関係から離れてしまうような、大きく揺さぶられる出来事もあったかもしれない。しかし神様の愛は変わらず、その救いの計画は日々、完成に向かって進んでいる。主にこそ救いがあり、神様は必ず回復を与え、導いてくださる。年末の感謝をささげ、来る年も主の真実な導きに期待をし、共に喜びつつ歩んでいきたい。