聖  書:箴言 第9章7~12節
9:7 あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。
9:8 あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。
9:9 知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。
9:10 主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。
9:11 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたの命の年は増す。
9:12 もしあなたに知恵があるならば、あなた自身のために知恵があるのである。もしあなたがあざけるならば、あなたひとりがその責めを負うことになる。

今朝は今年最初の聖日礼拝を迎えた。この年も52週の礼拝に、主の恵みが豊かに注がれ、精一杯の御用をさせていただきたい。今朝は普段あまり開かない箴言である。聖書には知恵文学と呼ばれるカテゴリがある。箴言を始め、伝道の書、ヨブ記、知恵の詩篇(詩篇1,19,37,49,112,127,123)等がある。知恵を求めるという姿勢は日本人には馴染みにくいかも知れない。知恵文学には、人が神様の前に如何に生きるのかが記されている。

Ⅰ.あざける者と知恵ある者
この箇所には神様を求めない「あざける者」と神様を求める「知恵ある者」が対比されている。あざける者は戒めを受け、責めを受けた場合に受け止めることができず、かえって、忠告した相手を傷つけ、憎む。今の言葉なら逆切れをする。知恵ある者は責められたとしてもそれを受け止め、感謝し、教訓とする。同じ状況に立っても天と地ほどの違いがある。イエス様の言葉、マタイ13:12「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」を思い起こす。知恵ある者はこの箇所で9節「正しい者」、10節「悟り」とある。神様によって正しく身を処し、深い悟りを持つことができる。

Ⅱ.詩篇1篇の幸いな人
知恵文学に属する詩篇1篇は幸いな人が記されている。幸いな人は悪しき者、罪人、あざける者と関わらぬ人である。この人は主のおきてを喜び、いつも主のおきてを心に止めている。命の水の流れに浴している木のようであり、やがて時が来て実を結び、葉はしぼむことがない。常に神様の栄光の内に、祝福の内に生きる。悪しき者は正反対である。もみがらのように中身の無い、命の無い存在であり、風に吹き飛ばされ、滅びに向かう者である。ここにも対比が出てくる。幸いな人は意志的であることが解る。悪しき者から離れる、主のおきてを心に思う。これらは、その人の意志によって選ばれ、行為によって果たされる。救いは信仰による、行いによってではなく、恩寵である。しかし、救いの後には、正しさを選び取っていく意志、果たしていく行いが問われる。新しい年、日々主の御心に叶う歩みをしていこう。

Ⅲ.キリストの知恵を持つ
神様の知恵を持ち、神様の御心に添って生きるにはどうすれば良いのか。新約聖書の時代に生きる私たちには、これに歩めという明確な指標がある。9:10「主を恐れることは知恵のもとである」の知恵という言葉は、新約聖書のコロサイ2:3「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」の知恵という言葉につながる。この前の2:2「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」とある。イエス様とつながることは命、愛、きよさに与り、さらに知恵や知識にも与る。イエス様とつながることは、私たちの品性、人格、知性にキリストの香りが移されていくことになる。

新しい年、神様の知恵に生きるために、イエス様につながり、その声に聞き従おう。