聖 書:コリント人への第一の手紙 第3章4~9節
3:4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。
3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
3:8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。
3:9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。

毎年9月第一聖日は「振起日」(Rally Day)と呼んでいる。Rallyの意味に〈気分など〉を取り戻す、盛り返す、回復する、がある。そこでアメリカの教会の慣習は〝9月となりわたしたちは気持ちを新たに奮い起こし心機一転、収穫の秋に備える”という心意気が込められている。夏に草木が生い茂り盛んになるように、教会の7~8月はそこに集う人たちが、自らの信仰を養い育てる季節です。子どもたちは夏休みが格好のキャンプシーズンであり、大人たちも聖会や修養会で霊の養いを受ける。そして自然界同様ついに実りの秋はやってくる。パウロはⅠコリント3章で植物の成長になぞらえ、信仰が成長する真の理由を、植える者も水をそそぐ者という人間がどれだけ労したのではなく、結局「大事なのは、成長させて下さる神のみである。」(7)と教えている。

1. 主から与えられた分に応じて仕えている
コリントの教会には分れて争うグループがあった。なかでもパウロ派とアポロ派は二大派閥でした(4)。お互いのグループは譲らず自分が正しい、わたしたちこそ正当だと言い出した。パウロは教会の中にねたみや争いがあるのは、あなたがたが「肉の人」だからだと鋭く追及する(3)。派閥は本来神様に向けられるべき忠誠心を、人間にすりかえてしまう肉的な性質だ。アポロもパウロも信仰に導いた人に過ぎない。パウロはわたしが教会を設立して、その後養い手としてアポロが用いられた(6)。でもそれは「主から与えられた分に応じて」仕えているに過ぎない。だからわたしたちは各々意見の違いを受け入れ合いながら逆に生かし、主にあって心を合わせて自己主張に死んで謙遜になることが大切だ。幸い教会は皆さん一つとなって祈り合って前進している。しかしこれを他人事と考えず、自分自身と周囲を見渡してパウロに耳を傾けたい。わたしは主から与えられた分(役割)をきちんと果たしているか。

2. 成長させてくださるのは神
ギリシャ語は動詞につづりによって時制を判別できる。「植える」と「水をそそぐ」の動詞は、過去に完成された動詞(アオリスト)時制だそうだが、「成長させた」の動詞は未完了時制で継続的な時制を表すそうだ。これで読み取れることは、教会成長のための人間の働きは、教会史の一コマに過ぎず、背後にあって神の国をつくるという遠大なご計画のために、救われたひとり一人をその時代にあって用いてくださり、神様が推し進めてくださっている。パウロは教会を建て上げていくのは、人間の役割と神様の役割があり、双方とも大切だと言っている。そうならば人間が計画したように事が運ばなくても結果だけにとらわれず、気落ちせずに「時が良くても悪くても」(Ⅱテモ 4:2)、成功したことには感謝してうまくゆかないことさえ、わたしたちは「成長させてくださる神」に望みを置くことができる。

3. わたしたちは神の同労者
パウロは教会の働きはお互いが連携プレーヤーであって、植える者と水をそそぐ者はどちらが優れているかではなく、一つであって「それぞれその働きに応じて報酬を得る」(8)と言う。わたしたちの地上での行動は神様に記録され、やがて天国でタラントのたとえのごとくに報酬をいただける。(マタイ25:14~30)9節を新改訳2017では「神のために働く同労者」として、新共同訳では「神のために力を合わせて働く者」とある。人を造られた神様という真の主人に仕えましょう。神様はその人の一生を通してご自身の栄光を現すために、すべての人を最高傑作として造られた。収穫物のない畑がないように、あなたという「神の畑」(9)からも神様に喜ばれる豊かな霊的産物を年毎に収穫し、完成を目指して建てる建物のように、世にあって神の国を代表する教会も、「神の建物」(9)にふさわしく皆さんで建て上げていきましょう。神様を信じるわたしたちを、光栄なことに神様は「同労者」と呼びかけてくださる。