聖書:Ⅰテサロニケ4章3~8節
4:3神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、 4:4各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、 4:5神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、 4:6また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。 4:7神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。 4:8こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。

教会では3つのビジョンを目標に歩みを進めている。そのひとつは「聖化される」ということである。聖化という語句は聖書中には見あたりませんが、聖書の思想としてはとても重要である。言葉の由来は<分離>を意味する「聖」からきており、人は救いによって罪と汚れから分かたれて、神様のご性質である聖なるものとして成長を遂げる。聖化は人間の修養や鍛錬で身につけるのではなく、神様の側からの恩恵によるのである。人間は聖霊によって与えられる聖化を、感謝をもって受け取り聖化された生涯を実現していく。

1.神のみこころに沿って清くなる 3~6
パウロは第二回伝道旅行でテサロニケに行った。「会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり」福音を語った結果、信じる人が起こされた。(使徒17:1~4)ところがユダヤ人のねたみを買って暴動が起きたのでパウロはベレヤに逃れた。そののちパウロはテサロニケ教会のことが気にかかりテモテを派遣した。(Ⅰテサ3:2)。するとテモテの報告によればテサロニケの教会にはいくつかの問題が生じていた。パウロの教えを間違って信じる人がいた。また信者の中には救われる前の世の人と、同化した生活に戻ってしまうものがいた。パウロは「一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、」(Ⅰテサ4:4~5/新改訳2017)神を知らない異邦人のようではなく、神に救われた者にふさわしく聖別された生活に心がけるように命じている。パウロは救われた人々にこう呼びかける。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:2)神の御旨とみこころは、わたしたちが清くなることである。(3)

2.神のご計画に沿って清さにあずかる 7~8
聖化は自浄努力では決して達成はできない。「…あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」(Ⅰコリ6:11)徹頭徹尾、神様の恵みである。なぜ聖なる者とされるのか。それは「神の子」として神様に用いられるためには、世と分離して選び分かたれる必要があるからである。(聖別)今日は児童祝福礼拝なので、こののちに祝福の時を持つ。どうか幼い頃から主が願う清さを求める子供として成長していただきたい。「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリ2:15)闇の中にまたたく星々のように、まことのいのちの光を放ってほしい。

聖化には三つの面がある。

  • 立場としての聖化(初期的な聖化)
    救われた時に聖なる者としての立場を与えられる。「…キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。…」(Ⅰコリ1:2)
  • 過程としての聖化 (漸進的な聖化)ゼンシン-順を追って少しずつ進む
    信仰生活を過ごす中で、日ごとに恵みによって霊的に成長して、聖なる者と近づけられていく。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハ17:17)「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」(エペ5:26)
  • 聖化の完成(究極的な聖化)
    終わりの時に、天において完全にきよめられる。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(Ⅰテサ5:23)

結論:いつか必ず訪れる聖化の完成を待ち望みつつ日ごとにきよくされよう。