聖書:ヘブル13:5-8

(5) 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。(6) だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。(7) 神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。(8) イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。

 中田羽後師は、日本ホーリネス教会の創立者(父)中田重治・(母)かつの次男として秋田県羽後町で誕生した。20才の時、伊豆の大島で「聖歌をもって我に仕えよ」との神の声を聞いて従った。先生は「父の涙」にも書いてあるが、アメリカで父と一緒に聞いたメサイア、特に23番で大きな感動を覚えた。父の目にも涙が流れていた。先生は日本の教会でメサイアが演奏されることを願って、昭和44年3月「中田重治記念オルガン」としてパイプオルガンを当教会に捧げられた。中田羽後師は77才の時エノクの如く召天された。 
 森山諭師は福島県の会津盆地の農家の長男として誕生した。農林学校在学中に問題が起こり責任者として解決しようとして、共産主義、キリスト教、神道、仏教、哲学などを学んだ。その結果8つの病気を患い、極度のノイローゼになり、病院の裏口から治らないからと言って追い出された。鉄道線路を枕にして自殺をしようとしたが、「己を捨て、己が十字架を負うて我に従え」という聖書の言葉にガァーンと頭を叩かれ、その場にひれ伏した。そこで傲慢であったことが示され、「病気を癒して下さい」と祈った。その後病気が癒され、それ以来生涯主に従って来た。昭和7年8月、待望誌が発行禁止になり、時間が与えられたので釜山経由で韓国に出かけた。楊錫文師の母上が父のために30年間祈ってくださった。