聖 書:出エジプト6章2節~8節

(2) 神はモーセに言われた、「わたしは主である。(3) わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。(4) わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。(5) わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。(6) それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。(7) わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。(8) わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』と」。

 出エジプト記は「主であることを知るであろう」という表現が多いのである。イスラエルの民がエジプトから解放される一連の出来事を通して、聖書 の神様が本当の神であることを全世界に知らせたのである。その神様を受け入れる人間の態度によってそれぞれ違う神様を経験することになる。拒否す る民には裁きの神様として、受け入れる民には導きの神様を経験する。私たちはこの出エジプト記を通して大きな教訓を頂きたいのである。
1.パロが経験した神様
 パロは未信者の象徴である。神様に関する彼の初めての反応は出エジプト5:2「主とはいったい何者か。わたしは主を知らない」である。今日にも パロのような人が大勢いる。ところで神様を否定する人にはそれに相応しい正当な代価がある。神様を真っ向から拒否し、対抗し、非難することは恐ろ しいことである。その人々はパロが経験した怖い神様を経験することになる。
神様は神様の存在を否定する人に対しても恵みを施して下さる慈しみ深い お方である。神様の慈しみの時間が終わらないうちに主の恵みを悟ってもらいたいし、悔い改めるように祈りたいのである。
2.イスラエルの民が経験した神様
 イスラエルの民はクリスチャンの象徴とも言える。彼らは神様の約束を信じて彼らの主として受け入れた。イスラエルの民が経験した神様は次の通り である。
1) 約束を覚え、成就して下さる神様
2)救いの神様
3)供給の神様
3.私たちが経験する神様
 イスラエルの民が経験した神様をこれから私たちも経験するのである。限られた人生の中でどのくらい神様を経験するかによって人生の豊かさが決ま るのである。神様を知れば知るほど人生は豊かになる。私たちは特にイエス・キリストを通して個人的にもっと深く、もっと広く経験する事になる。私 たちはこれからも引き続き、神様に関して一つずつ悟って行きたいのである。
結論
 私たちはこれからももっと深く、もっと広く神様に関して知りたいのである。神を知れば知るほどそれは私たちの祝福になるのである。