聖 書:ローマ12章1節~2節

(1) 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(2) あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 
 この車輪の図は「キリストに従う生活」を表しています。自動車を運転する場合、そのすべての権限はハンドルにあります。エンジンで発動されたエレルギーはハンドルによって車輪に伝えられ、車はその命令通りに動きます。問題はこのハンドルを誰が握っているか、です。クリスチャンとは、このハンドルを自分ではなく、神に操作して頂く者である、と言うことができます。
 聖書は「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(1)と教えています。
Ⅰ.罪を悔い改める 
罪について聖書は、①不義「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ53:6)、②不法「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である」(Ⅰヨハネ3:4)と教えています。不義は神に対する不信仰、不法は偶像崇拝を意味しています。私たちはキリストの贖いによって罪赦された者ですが、決して罪を犯さない者にされた訳ではありません。ですから聖書は「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)と教えているのです。私たちは罪赦された罪人として常に傲慢に陥ることなく、たとえ些細なことであったとしても、砕かれた魂の状態を保ち、悔い改める者でありたいと願います。
Ⅱ.サタンの誘惑に勝つ
 誘惑は悪魔から来ます。悪魔は十字架において滅ぼされたものですが、再臨までその勢力を使うことを神によって許されています。悪魔は人間の欲望から入ってきます。どんなに小さな欲望でも悪魔は見のがすことがありません。聖書は「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである」(ヤコブ1:14)と教えています。主イエスも悪魔の誘惑を受けましたが、見事に勝利を収められました。その勝利の秘訣は聖書の言葉でした。誘惑を受けないことに越したことはありませんが、誘惑を受けることは罪であると言い切ることはできません。誘惑を受けた場合は少しでも短時間で勝利を収めるように訓練される必要があります。
Ⅲ.神を信頼し、神を愛する
キリスト教は契約の宗教であると言われています。神と人間との間に交わされた約束に基づいています。旧約は人間の義の行為に基盤があり、新約はキリストを信じる信仰に基盤があります。双方に共通した基盤は信頼関係です。聖書は「わたしを愛するならば、わたしのいましめを守る」、「わたしのいましめを・・・守る者は、私を愛する者である」(ヨハネ14:15,
21)と教えています。
キリストにすべてを献げ、日々悔い改め、サタンの誘惑に勝利を収め、キリストを愛し、その戒めを守る者とさせて頂きましょう。