聖 書:ピリピ2章1節~11節

(1) そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、(2) どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。(3) 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。(4) おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(5) キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(6) キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、(7) かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、(8) おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(9) それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(10) それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、(11) また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 聖書には「イエス・キリスト」や「キリスト・イエス」、また「イエス」や「キリスト」と記載されている場合があります。子供の頃、どちらが苗字でどちらが名前なのかなと考えたことがありました。この場合「イエス」は個人名であり、「キリスト」は公職名であると理解してよろしいでしょう。「イエス」とは「主は救い主である」という意味で、当時ではよくある名前でした。しかし「キリスト」には非常に重要な意味があります。「キリスト」とは「油注がれた者」という意味で、旧約時代には特に「王・預言者・祭司」にのみ使われた尊称であって、決して兼務することができません。
 イエス・キリストという場合は、「イエスがキリスト(油注がれた者)すなわち救い主である」。キリスト・イエスという場合は、「救い主であるイエス」という意味になります。
Ⅰ.どのようなお方ですか。(キリストの人格)
キリストは無限(永遠・完全)に神であり・人です。ある時は神であり、ある時は人である、身体の半分が神であり半分が人である、という意味ではありません。いつでもどこでも、どのような状況においてもキリストは、無限に神であり・人であります。教会史における最初の誤謬説はキリスト仮現説(ドケチズム)でした。この説を最初に唱えたのはケリントスで、キリストは現実に肉体となったのではなく、ただ人のように見えたにすぎない、また神的キリストは洗礼の時にイエスの上に下り、十字架の時に彼を離れ去ったと主張しました。この教理はすぐさま斥けられましたが、現代でもキリストの神性の否定、三位一体の否定という点において異端に引き継がれています。
 聖書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)と教えています。トマスは「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)と告白しています。
Ⅱ.何をなさいましたか。(キリストのみわざ)
キリストは私たちの罪の代価を支払うために十字架にかかり、死んで三日目に甦り、天国で場所を買い取り、永遠の命を無代価の賜物として提供して下さいました。キリストは十字架上において「すべてが終わった」と叫ばれました。新改訳は「完了した」、新共同訳は「成し遂げられた」です。原語は「テテレスタイ」ですが、それは「支払うべき負債を支払った」という意味です。つまり罪人である私たちが受けるべき神の刑罰を、キリストが十字架において身代わりに受けて下さったのです。「すべてが終わった」という言葉は、キリストがこの大きな事業を「終えられた」ことを表しています。
私たちの肩の上に重くのしかかっていた神の裁きは、すべてキリストの十字架の上に転嫁されました。その結果、すべての人に永遠の命が無代価の賜物として提供されているのです。
 キリストについての必要にして十分な知識は、キリストの人格とそのみわざです。つなぎの言葉=この賜物は信仰によって受け取るものです。