聖 書:ルカ2章22節~35節

(22) それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。(23) それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、(24) また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。(25) その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。(26) そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。(27) この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、(28)シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、(29) 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、(30)わたしの目が今あなたの救を見たのですから。(31) この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、(32) 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。(33) 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。(34) するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――(35) そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。

 私は12月3日から8日まで「台湾基督長老教会人権宣言30周年国際研討会」に参加してきました。台湾は人口2,300万人の国ですが、いまだ世界の多くの国々からは独立国とは認められず、国連にも加入することが許されていません。それのみか、中国から様々な形での脅威を受けています。今回の会議において、「台湾国連加入権利宣言」が採択されました。台湾の多くの人々は、一日も早い独立国家の実現を待ち望んでいます。
 本日のテキストは「イエスの献児式」というにふさわしい箇所です。ここでシメオンは救主イエスとの出会いを経験し長年の悲願が実現するのです。
Ⅰ.イエスの献児式(22-24)
 主イエスは割礼を受けられた後、両親によって献児式が行なわれました。神の子でしたが、すべては律法の定めに従われたのです。その場は単に献児式として終らず、シメオンの生涯に大きな転機を与えることになりました。
Ⅱ.シメオンの悲願 (25-26) 
シメオンは、「正しい信仰の人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んで」(25)いました。彼には聖霊が宿り、「救主に会うまでは死ぬことはない」(26)と確信していました。当時のイスラエルはローマの属国であり、ヘロデ政権の圧制下で、政治的にも人権的にも、不自由な生活を余儀なくされていました。ですからイスラエルを復興して下さる政治的な指導者としての救主(メシヤ)を待望していたのです。しかし、このような状況の下にあってもシメオンは、神の国を実現させる霊的なメシヤの到来を待ち望んでいたのです。この度の会議において85歳になる老牧師は、「台湾が独立して国連に加入できないならば、私のこれまでの長い戦いは何のためだったのか」と悲痛な叫びをあげたのは、特に印象的でした。一見平和な社会と思えるわが国にも多くの問題が山積しています。特に心の問題、霊的な問題は、深刻です。私たちもシメオンのように、まことの救主であるイエス・キリストを待ち望むべきではないでしょうか。
Ⅲ.シメオンの待望の実現(27-32)
 シメオンの悲願は神殿において幼な子イエスと出会うことによって実現しました。これはまことに象徴的な出来事であると言えます。彼はイエスと出会うだけでなく、自らの「腕に抱」く(28)という光栄に浴しています。さらに彼は「あなたの救を見た」(30)と言い、「この僕を安らかに去らせてくださいます」(29)とまで言い切っているのです。人間的な言い方をすれば、「もう死んでも良い」という心境です。
 人々には夫々の人生観や価値観があります。それらはどこまでも相対的であり限定的です。しかし救主イエスと出会うことは、最も素晴らしい絶対的な価値観なのです。彼は個人的な経験をすると共に、イエスの降誕によってもたらされた救いが「万民のまえに備え」(31)られたものであり、「異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光」(32)であると告白しています。
 キリストの降誕は歴史の分岐点となっただけでなく、人生の転換点となったところに、大きな意義があります。私たちも「わたしの目があなたの救を見た」(30)というような体験をさせて頂きたいものです。