聖 書: ヨハネ13:12~20、31~35

(12)こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。(13)あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。(14)しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。(15)わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。(16)よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。(17)もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。(18)あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。
(19)そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。(20)よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。
(31)さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。(32)彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。(33)子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。(34)わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(35)互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 イエスは弟子たちを「最後まで愛し通され」(13:1)ました。イエスはその愛の実証として弟子たちの足を洗われました。その後、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか」(12)とお尋ねになり、「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」(14-15)と言われたのです。「手本」とは何を意味しているのでしょうか。
Ⅰ.謙遜の手本 (12~15)
 イエスの洗足の行為は一方的なものでした。しかし弟子たちには「互に」に行うように勧めています。それは「足を洗う」こと自体を意味していると考えられます。どのようにして洗うのか、というような方法の問題ではなく、とにかく「足を洗う」ことにつきるのです。主であり、教師であるイエスが弟子たちの足を洗われたのです。ここにイエスの謙遜の手本を見ることができます。人様の足を洗うには、起立していては到底行うことができません。否応でも人様より低くならなければなりません。聖書は「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)、
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(Ⅰペテロ5:5)と教えています。
Ⅱ.信仰の手本 (16~20)
 イエスは「僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」(16-17)と言われました。いずれの社会にも上下関係はあります。しかしそれが権威だけで行使されるならば、社会はぎくしゃくしたものになります。イエスの洗足にはユダも同席していました。しかしイエスは彼にもパンを与えられたのです。そしてイエスは「わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」(20)と言われたのです。ここに
イエスの信仰の手本を見ることができます。イエスは生涯父なる神に従われましたので、神の栄光をお受けになられたのです。
足は汚れたものです。足を洗うとは、互いの醜さ、弱さ、足りなさ、罪などを赦し、覆い、そしてすべてを受け入れることを意味しているのではないでしょうか。聖書は「人さばくな。自分がさばかれないためである」(マタイ7:1)と教えています。
Ⅲ.愛の手本 (31~35)
イエスは「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(34)と教えられました。イエスの洗足に愛の手本を見ることができます。この新しいいましめは、古いモーセの戒めに取って代わるものではなく、イエスの愛によって私たちに与えられたものなのです。イエスの洗足は単に手本に終わらず、イエスの十字架において示されている最高の愛なのです。聖書は「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)と教えています。
イエスの洗足は謙遜、信仰、愛の手本です。私たちもイエスの手本に倣い、互いに足を洗い合う者にならせて頂きたいものです。