聖 書: ヨハネによる福音書 15:18~27

(18) もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。(19) もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。(20)わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉も守るであろう。(21) 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。(22) もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。(23) わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。(24)もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。(25) それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。(26) わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。(27) あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

M・ルターの〈キリスト者の自由〉の冒頭に〈キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であり、だれにも従属していない〉、〈キリスト者はすべての者に奉仕する僕であり、だれにも従属している〉という二つの相反する命題が記されています。〈自由な主人〉とは、〈律法から解放>された者を、〈奉仕する僕〉とは〈キリストの愛をもって仕える〉者を意味しています。ここにキリスト者の生き方が見事に述べられています。私たちは自分でキリスト者となったのではなく、キリストに選ばれてキリスト者とされたのです。それは「実に、恵みにより、信仰による」(エペソ2:8)と記されている通りです。その結果私たちは律法から解放され、自由の身となりました。しかしそれは第一の命題の「~からの自由」であって、第二の命題の意味は「~への自由」という意味を持っています。それが本日のテキストを解く鍵となります。
Ⅰ.この世と神の国 (18~19) 
聖書はキリスト者のことを「この世から出たもの」、「この世のものではない」、「この世から選び出した」(19)と記しています。つまりキリスト者とは、この世から救い出され、神の国に所属する者なのです。〈この世〉とは神に背反する世界であり、〈神の国〉とは神の御心がなされる世界です。両者間にはいつも緊張関係が漂っています。18節~25節の間に「憎む」が7回、「迫害」が2回も出てくるのです。「この世はあなたがたを憎む」と記されている通りです。しかし私たちは〈この世〉にあって生きています。〈この世〉から切り離されては生きることができません。ですから〈キリスト者はこの世にあって、この世の者ではない〉という生き方を確立しなくてはならないのです。
Ⅱ.僕と主人 (20~25)
 「僕はその主人にまさるものではない」(20)、この場合の僕はキリスト者を、主人はキリストを表しています。「あなたがたよりも先にわたしを憎んだ」(18)、「わたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害する」(20)。このように聖書は、キリスト者が憎まれ、迫害される前に、まずキリストが先に憎まれ、迫害されたことを記しています。それは時間の問題ではなく、私たちの受ける苦難は、キリストの苦難には到底及ばない軽微なものであることを教えられ、大いに励まされます。
 当時のキリスト者はこの世から誤解され、非難されていました。第一は謀反者、第二は人食い人種、第三は不品行者、第四は扇動者、第五は家庭を破壊する者。現代でも無知の故に、キリスト者に敵意を表す人がいます。私たちは彼らに対して、律法から解放された主の僕として、彼らを許し、神の愛を伝える特権に与っているのです。
Ⅲ.キリスト者の自由
 初代教会において〈偶像への供え物〉についての論議がありました。当時、市場で売られている肉は、偶像の神殿を経由したものか、そうでないのかは判断できなかったのです。それに対してパウロは「食べてなくても損はないし、食べても益にはならない。しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい」(Ⅰコリント8:8-9))、「だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないが良い。良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである」(Ⅰコリント10:28-29)と教えています。
キリスト者は神の恵みによって律法から解放された自由人であり、その自由はキリストの愛によって制御され、互いの違いを受け入れ合う者とされるのです。