聖 書: ペテロの第二の手紙 3:8~18
(8) 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。(9) ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(10) しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(11) このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、(12) 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。(13) しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。(14) 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。(15) また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。(16) 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(17) 愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。(18) そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。
本日は当教会牧師であった中田羽後師と森山諭師の召天記念聖日です。中田羽後師は1974年7月14日77歳、森山諭師は1996年7月22日88歳で召天されました。中田師は教会音楽家として、森山師は伝道者としてわが国においては希有な器でした。森山師は一人の霊魂を追い求めて、必要があればどこへでも出かけていく伝道者でした。その情熱の根底にあったものが「再臨信仰」だったのです。
Ⅰ.キリストの再臨の教え
「再臨」は「初臨(降誕)」に対比される言葉です。旧約における預言は初臨と再臨とが混同していて判断しがたい面があります。新約には約300回以上、25節に1回の割合で「再臨」について記されています。主イエスは「あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ26:64)、「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイ24:27)、「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう」(マタイ24:36-37)と言われました。再臨に関しては、これまで極端な教理が考え出され、多くの異端発生の原因ともなりました。私たちは聖書の教えの核心部分にしっかり立脚して、極端な方向に進まないように注意しなくてはなりません。
Ⅱ.キリストの再臨の目的
今日までの歴史において厳しい迫害下にあった信徒にとっては、キリストの再臨は大きな希望であり、心の拠り所でした。再臨の目的は少なくとも4つあります。
1.神の国の実現のため:イエスは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と言われました。神の国とは〈神が主権を持って支配される国、神の御心が実現する国〉であると言えます。
2.救いの完成のため:聖書は「わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」(コロサイ3:4)と教えています。ある学者は「終末論は創造の完成論である」と述べています。
3.正邪を正しくさばくため:世の中は不条理で満ちています。だれがこれを糺すことができるでしょうか。再臨のキリストがすべてを明らかにして下さるのです。
4.新天新地の実現のため:「その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされ」(10)てしまうのです。これは決して破壊のためではなく、新しい天地の創造のためなのです。
Ⅲ.キリストの再臨のための備え
「主の日は盗人のように襲って来る」(10)のです。ですからいつも主の再臨に備えておく必要があるのです。ここに5つの備えを見ることができます。
1.極力、きよく信心深い行いをしていなさい。(12)
2.しみもなく傷もなく、安らかな心で、神のみ前に出られるように励みなさい。(14)
3.主の寛容は救のためであると思いなさい。(15)
4.非道の者の惑わしに誘い込まれて、確信を失う事のないように心がけなさい。(17)
5.イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。(18)
主イエスは「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられる」(9)のです。いつ主がおいでになられても主のみ前に立ち得るように備えさせて頂きましょう。