聖 書:ピリピ人への手紙1章18節~21節
(18) すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。
(19) なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。
(20) そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。
(21) わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
聖書の中には「キリスト・イエスにあって」という言葉や、それに類する言葉が幾回も出てきます。特にエペソ書には25回、ピリピ書には11回ほど出てきます。英語ではすべて[in]という言葉が使われています。漢字では[在]という字が一番相応しいのではないかと思います。私は手紙を出す場合、最初には[頌主(主を頌め称えます)]、終わりには[在主(主に在って)]と言う言葉を使います。ケズィック聖会の標語は「みな、キリスト・イエスにあって一つ」(ALL ONE IN CHRIST JESUS)です。
現代は物質文明が極度に発達した時代です。それが故に人々の絆が弱くなり、多くの人々は自分の居場所を見失い、極度の寂しさや孤独感を味わっています。どこにその解決があるのでしょうか。パウロはピリピ書を通してその秘訣を私たちに教えてくれています。私たちも彼と同じような心境を会得して平安と喜びの人生を送りたいものです。
Ⅰ.新しい命に生きる
キリスト者とは、[キリストに在る者]を意味しています。 [in]にはキリストの中に包み込まれているような安らぎを覚えます。[在]にはキリストとしっかりと結び合わされている喜びを覚えます。ですからキリスト者とは、[キリストに包含された者]、[キリストに結合された者]と言っても良いのです。
人はアダムとエバの堕落によって、神の命から切り離された者となりました。しかしキリストの贖いによって再び神の命に結び合わされる機会が与えられたのです。パウロは生粋のユダヤ教信者であり、エリート中のエリートでした。ですからその熱心さの故にキリスト教徒を迫害する急先鋒に立っていたのです。彼はその目的のためにダマスコに向かう途中において復活のキリストに出会うことによって、彼の人生は[死から命へ]と大転換したのでした。そこから彼の新しい人生が出発したのでした。
Ⅱ.神の栄光のために生きる
新しく生まれ変わったパウロには、明瞭な人生の目的が与えられました。それは「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること」(20)でした。「あがめる」という言葉は[拡大する]という意味があります。パウロは、[自分の身によってキリストが人の前に大きく現れる]ことを願ったのです。そのために彼は入獄中でありながらも、「わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ること」(20)を切実な思いで待ち望んでいたのでした。
人間は他の動物と違って、自己目的の為だけには生きることが出来ません。何らかの他者目的を見い出す必要があるのです。福祉、慈善、博愛、施与、援助等々も素晴らしいものです。しかし最も素晴らしい、真の目的は先に掲げたすべてのものの背後に存在される、神の栄光のために生きることなのです。
Ⅲ.新しい死生観に生きる
[キリストにあって生きる]とき、まずその人の価値観が変わります。次に人生観が変わります。更に世界観が変わります。そしてついに死生観が変わるのです。キリストとパウロの濃密な関係は、今や最絶頂期に達していたように思われます。両者の間には何人と雖も入り込む一寸の隙間さえも見いだすことが出来ないほど密着した状態でした。そうであればこそ、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(21)と言い得ることが出来たのでした。多くの人々は、[私にとって生きることは自己、死ぬことは大きな損失である]というような人生を送っています。[キリストにあって生きる]ことを知らなくては、自己目的のための人生に終わってしまいます。その結果、病気や災害や死に対して必要以上の恐れを抱くことになるのです。
私たちは「キリストにあって生きる」者であることを再認識し、新しい命に生き、神の栄光のために生き、新しい死生観に生きる者とさせて頂きましょう。