聖 書:ピリピ人への手紙4章1節~3節

(1) だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。
(2) わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。
(3) ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。

 2009年はわが国のプロテスタント宣教150周年記念の年でした。この年は各派・各団体において記念すべき行事が行われました。第5回日本伝道会議(JCE5)もその中の一つで、横浜における「記念大会」と共に、最も大きな会議となりました。その標語は「危機の時代における宣教協力」でした。その背景には宣教150周年を経ても、いまだに信徒数が全人口比1%の壁を越えていないという厳しい現実と共に、何とかしてこの壁を乗り越えたいという切なる願いがありました。わが国の教会の殆どが欧米からの宣教師の働きによって誕生しました。そのことに対して私たちは大きな感謝を捧げなくてはなりません。しかしその反面、教派主義が先行して教会の公同性が後手に回ったことも事実です。私たちはJCE5においてその点を深く反省すると共に、各派・各団体の壁を破って、互いに協力の輪を広め、深めることによって1%の壁を乗り越えることを堅く誓ったのでした。
Ⅰ.協力の基盤
 人間の集まる所にはいつも何らかの問題が生じます。ピリピの教会も決して例外ではなかったのです。その問題は二人の有力な女性の不仲でした。パウロはまず二人の心が協力することに腐心しました。[協]とは三つの力が一つになることです。[不仲] とは心がばらばらになっていることを意味しています。そこでパウロはすでに彼らの間に事実として存在している基盤に目を向けさせたのです。その基盤とは「主にあって」という素晴らしい事実です。「主にあって」とは[主イエス・キリストとの人格的な結びつきにおいて]と言う意味です。ピリピ教会とパウロは、「主にあって」信頼しあった関係にありました。パウロは彼らのことを「愛し慕っている兄弟たちよ」、「わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ」と呼びかけています。そうすることによって、二人が共通の基盤に立っていることを再認識させ、その結果、「主にあって堅く立ちなさい」と勧めているのです。
Ⅱ.協力を阻むもの
 人間社会には、利害、嫉妬心、面子(めんつ)、競争心などと言った協力を阻むものがいくつかあります。ここで問題になっているのはユウオデヤとスントケの不仲のことですが、その要因については聖書は何も触れていません。聖書は彼らが教会にあって有力な信者であり、パウロの熱心な協力者であったことを記しています。そこでパウロは彼ら二人に対して「主にあって一つ思いになってほしい」と勧めたのです。それだけではなく、パウロは「真実な協力者」に「このふたりの女を助けてあげなさい」と依頼しています。真実な協力者がだれであったかも分かりません。推測するところ、それほど重大なものではなく、些細なことであったように思われます。大きな段差にはつまずきませんが、一寸した段差にはつまずきやすいものなのです。
Ⅲ.協力の主眼
協力には、協力の基盤と共に、協力の主眼・大義が必要です。パウロは彼らが「『いのちの書』に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと戦ってくれた女たちである」と紹介しているのです。「いのちの書」に名を書きとめられているとは、すべての信者に当てはまる言葉なのです。[永遠の命の書に名が記されている]という事実は、この世のいかなる価値にも勝った、キリスト者特有の資産です。
常にこの点に主眼をおけば、この世における問題は小さいものに見えてくるのです。そうした視点に立って、福音のために私たちは協力するのです。
各個教会が互いに協力し合って一致していなくては、他の教会との協力も難しくなります。日本の福音化のために共に良い教会を築いていきましょう。