聖 書:コロサイ人への手紙1章24~29節

(24) 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。(25) わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。(26) その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。(27) 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。(28) わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。(29) わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。

 「奥義(おくぎ・おうぎ)」とは「学問・技芸・武芸などの最も奥深い大切な事柄」と国語辞典は説明しています。華道などでは流派によって異なりますが、ある派では「初伝、中伝、奥伝、皆伝」という免許が与えられます。また哲学における奥義は[知性による探求の産物]ですが、聖書における奥義は、[啓示によって神から人に聖霊の働きによって解き明かされた真理]を意味しています。新共同訳は「秘められた神の計画」と訳しています。聖書には29回使われています。福音書には「神の国の奥義、天国の奥義」として3回、黙示録には5回、残り21回はパウロが使用しています。それでは奥義の具体的な内容は何かと言いますと、広義では[福音のすべて、神の救いの計画]を意味し、狭義では[十字架(Ⅰコリント2:1、7)、受肉(Ⅰテモテ3:16)、キリストの内住(コロサイ1:27)、復活による栄化(Ⅰコリント15:51)]などがあげられます。
Ⅰ.神のことばの奥義
 ヨハネ福音書の冒頭には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(1:1,14)と記されています。これらは創世記冒頭の「はじめに神は天と地とを創造された」(1:1)に匹敵する重要な言葉です。パウロは「わたしは,神の言を告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられている・・その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである」(25,26)と述べています。ですから「神のことばの奥義」という場合、一つは「キリスト」、二つは「福音・神の言・聖書」を意味していることが分かります。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(Ⅱテモテ3:16)と教えています。聖書は神の言葉であると信じることが出来る人は本当に幸せです。

Ⅱ.異邦人の受くべき奥義 

 この奥義は選民イスラエルに限って明らかにされたものではなく、異邦人に対しても
同様であったことは真に驚くべきことです。パウロは復活のキリストとの出会いによってキリストの救いに与りました。主はその際、「あの人は,異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」(使徒9:15)と言われました。パウロもまた、「苦難を喜んで受け、・・キリストの苦しみのなお足りないところを、肉体をもって補って・・神の言を告げひろめる務めを・・神から与えられ・・教会に奉仕する者になっているのである」(25)と確言しているのです。
この奥義が異邦人である私たちにまで及んでいることに感謝いたします。
Ⅲ.内住のキリストの奥義
 「あなたがたのうちにいますキリスト」とは、何という畏れ多くも有り難いことでしようか。旧約時代には、モーセの会見の幕屋やソロモンの神殿などようなひな型をもって示され、「あなたがたの神、主はあなたがたとともにおられる」(歴代上22:18)などの預言者の言葉をもって伝えられています。そうしたひな型や預言はキリストの十字架、復活、昇天、聖霊の降臨によって現実となりました。パウロはこの奥義は「栄光に富んだものであり、栄光の望みである」と言っています。それは将来の恵みであると共に、現在でも与ることにできる恵みです。キリストは「知恵と知識の宝(コロサイ2:2)、慈愛と忍耐と寛容の富(ローマ2:4),神の恵みの絶大な富(エペソ2:7)、無尽蔵の富(エペソ3:8)」に満ちたお方です。私たちは信仰(エペソ1:17)、磔殺(ガラテヤ2:19-20)、愛(ヨハネ14:23)によって、日々キリストをうちに宿す者とさせて頂きましょう。
 パウロはキリストを心に宿しただけでなく、キリスト者が全き者として神のみ前に立つようになるために、キリストを宣べ伝え、訓戒し,教えたのです。