聖 書:歴代志下29:1~11、ヨハネ4:23~24
(1) ヒゼキヤは王となった時二十五歳で、二十九年の間エルサレムで世を治めた。その母はアビヤと言って、ゼカリヤの娘である。
(2) ヒゼキヤは父ダビデがすべてなしたように主の良しと見られることをした。
(3) 彼はその治世の第一年の一月に主の宮の戸を開き、かつこれを繕った。
(4) 彼は祭司とレビびとを連れていって、東の広場に集め、
(5) 彼らに言った、「レビびとよ、聞きなさい。あなたがたは今、身を清めて、あなたがたの先祖の神、主の宮を清め、聖所から汚れを除き去りなさい。
(6) われわれの先祖は罪を犯し、われわれの神、主の悪と見られることを行って、主を捨て、主のすまいに顔をそむけ、うしろを向けた。
(7) また廊の戸を閉じ、ともしびを消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、燔祭をささげなかった。
(8) それゆえ、主の怒りはユダとエルサレムに臨み、あなたがたが目に見るように、主は彼らを恐れと驚きと物笑いにされた。
(9) 見よ、われわれの父たちはつるぎにたおれ、われわれのむすこたち、むすめたち、妻たちはこれがために捕虜となった。
(10) 今わたしは、イスラエルの神、主と契約を結ぶ志をもっている。そうすればその激しい怒りは、われわれを離れるであろう。
(11) わが子らよ、今は怠ってはならない。主はあなたがたを選んで、主の前に立って仕えさせ、ご自分に仕える者となし、また香をたく者とされたからである」。
ヨハネ4:23~24
(23) しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
(24) 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 ユダの王ヒゼキヤの働きを通して、神がわたしたちに求めておられる礼拝とはどのようなものか、ということを知ることができます。
1.主の宮の聖別 
 大国アッシリヤの脅威が日毎に募ってくる中で、ヒゼキヤが王となって最初に行ったことは、国の兵力や財力を確かめることではなく、神を礼拝することでした。これは、彼の政治生命を掛けた行動であり、国の存亡に係わることであったと思われます。彼が祭司レビ人に向かって「わが子らよ、今は怠ってはならない。主はあなたがたを選んで、主の前に立って仕えさせて、ご自分に仕える者となし、また香をたく者とされたからである。」(11)と言います。
 わたしたちも、ただ漫然と時間になったら出席するということであってはならないのです。今は、ヒゼキヤの直面している問題とは異なっています。毎日の生活のこと、健康のこと、老後のこと、子供の教育など問題は沢山ありますが、まず神を礼拝することが求められています。
2.主に犠牲をささげる
礼拝とは神にささげものをすることです。神殿では罪祭と燔祭がささげられました。これが礼拝における中心的ささげものです。
罪祭とは、罪のためのささげものであり、わたしたちの罪祭はキリストの十字架です。礼拝では、いつもキリストの贖いが確認され、その恵みを新たにします。礼拝堂に十字架を掲げ、聖餐台を設置するのも、聖餐式を執行するのも、わたしたちの罪祭となってくださったキリストの犠牲を記念し、その贖いの恵みを信仰によって新たにするためです。
 燔祭は、全焼の犠牲、感謝の供え物ですが、いま礼拝においてたしたちに求められている燔祭の犠牲とは、わたしたち自身を捧げることです。礼拝における献金は、宥めの供え物ではなく、感謝と献身の表明でなければなりません。わたしたちの救い主であるキリストは、わたしたちを神に仕えさせるためにご自身、罪祭となってくださったのです。わたしたちは喜んで主に仕え、燔祭の生涯・献身の生涯・礼拝者としての生涯を送りましょう。