聖 書:マタイ5:1~12

(1)イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
(2)そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
(3)「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
(4)悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
(5)柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
(6)義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
(7)あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
(8)心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
(9)平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
(10)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
(11)わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
(12)喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

今年の主題は礼拝と祈祷である。私たちが聖日にささげている礼拝、礼拝順序の構成要素を見ている。第三回は説教を取り上
げる。

Ⅰ.説教の大切さ
説教について教会で良く語られる言葉に「説教によって教会は建ちもし、倒れもする」がある。礼拝の中心に説教があり、
説教を語る牧師の責任は大きい。大きく言ってカトリック教会はミサを中心にした祭儀を重要視する。プロテスタント教会は
「神の言葉の説教が神の言葉である。」(第二スイス信条、1566年)との立場に立つ。説教が今ここにおける神様の言葉
である。教会に集まる一人一人、群れ全体に、その日、その時に必要な御言葉が解き明かされる働きである。牧師は神様の前
に祈り、へりくだり、神様を仰ぐしかない。説教者を指して管や器という言葉が使われるように神様の言葉の仲介者、媒介者
である。

Ⅱ.イエス様の説教
教会によって神様の言葉は取り次がれてきた。歴史をたどって原点を求めるなら、イエス様の説教に行き当たる。イエス様
は様々な場所で、様々な人々に説教を語られた。どれか一つは難しいが、説教としては一番有名であろう山上の説教の最初を
取り上げる。ロシアの文豪レフ・トルストイは山上の説教を非常に大切にしたことでも有名である。全体はマタイ5~7章だ
が、その最初の部分、8副または9福の教えと言われる箇所になる。神様から祝福を受ける人について語られている。

①心の貧しい人:神様の助けと守りを必要とする人。他のものではなく神様に寄り頼む人
②悲しむ人:イエス様は悲しみの人で、涙を知っていた。地上の慰めを越える天上の慰め
③柔和な人:イエス様は柔和で謙遜な人であった。本当の強さは力ではなく困難への忍耐
④義に飢えかわく人:聖書の義とは救いを意味する。神様との正しい関係を求める人。
⑤あわれみ深い人:相手を理解し一つになり苦しむ。喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣く
⑥心のきよい人:清潔、純粋、罪のないを表わす言葉。神様は内側のきよさを問う。
⑦平和をつくる人:世では悪に対して力、報復で応える。神様との平和を持つ神の子。
⑧義のために迫害される人:信仰のための迫害。この世ではなく神様に従う者である。
⑨迫害における喜び:イエス様のために受ける迫害。イエス様と弟子たちの道に従って。

Ⅲ.説教による転換(ルカ24:13~35)
最後にルカが記した復活の日のできごと、エマオへの途上から話したい。イエス様の十字架の死に失望落胆した弟子2人が
、エルサレムから離れていく。イエス様は彼らに近づき、御言を説き起こされた。やがて彼らの霊的な目が開かれイエス様を
認めた。心燃やされる体験をし、逃げ出したエルサレムへと走って引き返した。ここに説教の過程や結果がある。

説教は語る者も聞く者も神様の前にひれ伏す者である。私は、集うお一人一人が、教会全体が説教によって生かされ、強く
されていくように心から祈り、努めていきたい。