聖 書:ピリピ1:1~11

(1)キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
(2)わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
(3)わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、
(4)あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、
(5)あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。
(6)そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
(7)わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。
(8)わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。
(9)わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、
(10)それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、
(11)イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。

本年度の標語は「神の愛を分かち合う-交わり」である。4・5月は教団聖句、教会聖句から説教を語ってきた。教会で「交わり」という言葉は感覚的、感情的に使われることも多い。前回のヨハネ第一の手紙は1章が導かれ、教えられた。信仰者同士の真実な交わりのためにイエス様は十字架であがないの死をとげてくださった。交わりの基礎にはイエス様の十字架の血潮にある。交わりにはそれほどの価値があることを良く知っていよう。

Ⅰ.ピリピ教会との交わり
ピリピ人への手紙の著者はパウロである。ピリピ人への手紙は、エペソ、コロサイ、ピレモンと共に獄中書簡と呼ばれる。諸説あるが紀元後61・62年頃にローマの獄中で書かれた。ピリピ教会の誕生はパウロの第二回伝道旅行の時である。使徒行伝16章には、小アジアで道が閉ざされたパウロが、トロアスでマケドニア人の幻を見た。直ちにパウロはエーゲ海を渡り、マケドニアへと行き、第一の植民都市ピリピで伝道を始める。ルデヤ一家が救われ順調に始まった宣教だったが、パウロは無実の罪で捕えられ牢屋に投げ込まれる。真夜中に起こった地震によって彼らは自由となり、牢屋番の一家が救われた。劇的な出来事が起こったピリピで生まれた教会はやがて成長し、パウロはピリピ教会を喜びとしていた。

Ⅱ.ピリピ教会への喜び
コリントやガラテヤのようにパウロが痛みを感じる教会もあったが、なぜピリピ教会は喜びだったのだろうか。5節「最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっている」ことにある。イエス様を信じ続けること、神様の福音に立ち続けることは単純なことがらであろう。どんな時にも忠実に信じ続けていくことは賞賛すべきことである。「あずかる」という言葉はコイノニアである。神様との交わりと共に信仰者同士の交わりがあった。真実な交わりは共同体のきずなを強め、守っていく。神様にある交わりが1世紀にマケドニアで生まれたばかりの教会を支え、守っていた。その交わりは教会を越え、ローマの獄中のパウロともつながっていた。ピリピ教会との交わりが囚われのパウロを大いに励まし、力づけていた。

Ⅲ.ピリピ教会への祈り
パウロはなお、ピリピ教会が信仰から信仰に歩み、成長できるように祈っている。具体的に求められているのは9節に愛が増し加わるようにとある。愛は感情面だけで捉えられやすいが、知識と感覚が伴うことである。愛は知性でも、意思でも持つべきものである。例:E・フロムの愛について。10節に何が重要であるかを判別できるようにと祈る。信仰の中心となるべきものは何であるかが解っているべきである。折角の働きが、方向違いであったりすることがないように願う。11節に教会が最終的に目指すものは神様の栄光と誉を表すことにあると祈っている。

神様にある真実の交わりには喜びがある。その集まりだけではなく周囲に喜びの輪を広げていく。教会に愛が増し加わって、力強い働きとなっていくように共に信仰に立ち続けよう。