聖 書:コリント人への第一の手紙 第3章10~17節
3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
今朝はユダヤの暦では五旬節、ギリシャ語読みではペンテコステである。復活のイエス様が天に帰られる時に聖霊が降ることを約束された。弟子たちの待望の祈りを通して聖霊が降り、復活のイエス様が証しされ、大きな救いの業がエルサレムに起こっていった。今も生きて働かれている聖霊について見ていこう。
Ⅰ.神様による土台
パウロはコリント教会の開拓者、創立者であった。そのことを自慢するのではなく(10節)「恵みによって」と神様が始められたことを強調する。パウロの働きは土台をすえることにあった。パウロは(11節)「土台はイエス・キリスト」と言う。イエス様を土台とすることは(マタイ7:24~)、岩を土台とすることである。降雨にも、洪水にも、大風にも耐えることができる。パウロは(10節)「熟練した建築師のように」慎重に注意深く、土台をすえたと言っている。建物は建替えもでき、リフォームもできよう。しかし、土台は一度据えてしまうと動かせない。私たちは土台にイエス様をすえていることを感謝しよう。
Ⅱ.人による建物
イエス様の土台の上に、人の手で建物が建てられる。形づくられていく建物は個人で言うと信仰や奉仕、公に言うと教会、団体になる。建材には、全く違う2種類の素材が出てくる。(12節)「金、銀、宝石」「木、草、わら」である。高価なものと安価なもの、建築に時間がかかるものと直ぐにできるもの、火でも燃えない耐久性とすぐに燃えるもろさ、手間暇かけたものと安直にできるものと2つの素材は全く違う。2つの素材は見た目も全く違うが、火によって、はっきりと違いが出る。燃えないものと燃え尽きるものの違いである。火とは試練、困難である。試練を通されて残るのか、失われるのかという結果が出る。金や銀であるなら火に耐えるばかりか、さらに純粋なものとされる。私たちの信仰、教会もそうである。
Ⅲ.神様の神殿
土台はイエス様ご自身であり、その上の建物は信仰と奉仕によって建てられる。ある人は苦労しても尊いものを建て、ある人は安直に粗末なもので建てる。神様はその建物に聖霊を送って、神の宮とされる(16節)。私たち自身が神様を迎える神殿であると言う。使徒行伝2章のペンテコステの日以来、聖霊は豊かに注がれている。私たち個人にも、教会にも聖霊は満ちてくださる。聖霊を迎える私たちの信仰は、使徒行伝1章の屋上の間の弟子たちのように心を合わせて祈ることにある。今まで一致することのなかった弟子たちが心砕かれる。この手紙が宛てられたコリント教会は党派心が強かった。私たちは違いを越えて一つとされていくことによって、聖霊が豊かに降り、満ちあふれてくださる。
豊かであっても一致できなかった2千年前のコリント教会へのチャレンジである。私たちが力と喜びに満ちて、十字架と復活のイエス様は救い主であると証しするために、一致を求めて祈ろう。聖霊がさらに豊かに働かれる個人であり、教会となろう。