聖 書:ゼカリヤ9:9~10

(9)シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
(10)わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。

 

レントの日々、今日はイエス様のエルサレム入城・棕櫚の主日であり、受難週が始まる。宮きよめ、反対派たちとの論争、木曜日の洗足、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、捕縛、不法の裁判、受難の聖金曜日のドロローサの歩み、十字架の死、葬りとつながる。四福音書共に最も詳しくこの1週間を記す。

Ⅰ.ゼカリヤの時代の困難
ゼカリヤの預言の始めはペルシャ王ダリヨスの第2年(紀元前520年)8月からとある(1:1)。前の書のハガイはダリヨス王第2年6月(ハガイ1:1)とあり同時期の預言者である。その前にイスラエルの民は紀元前538年クロス王の勅令によって帰還が許された。指導者ゼルバベル、大祭司エシュアによってエルサレム神殿再建が始まる。周辺民族の妨害で工事は16年間中止され、辱めと悩みにあった。ゼカリヤとハガイは神様のメッセージを伝え、励ましと力が注がれた。再びイスラエルの民は立ち上り(エズラ5:1~2)、ついに第二神殿が完成する(紀元前516年、エズラ6:15)。背景を少し詳しく話したが、各々の時代には困難がある。神様は人を備え、ご自身が先立たれる。私たちも宣教に勇気を得よう。

Ⅱ.ゼカリヤが見た王(9節)
ゼカリヤはイエス様の来臨、黙示を多く残す。この箇所は約500年後のイエス様のエルサレム入城を映し出している。イエス様がお生まれの時、東方の博士はユダヤ人の王はどこに生まれたかを尋ねた。イエス様が死なれる時、頭上にはユダヤ人の王と記された。イエス様の生涯にこの世の王としての姿はない。ここでは何の王なのか。1)義なる王:この世の正しさは時代、文化等で変化することもある。イエス様の正しさこそ不変であり、私たちにも与えてくださる(義認)。2)勝利の王:イエス様の勝利は罪への勝利、死への勝利である。十字架と復活によって罪の赦しと永遠の命を表された。3)柔和な王:イエス様の慈しみ、憐みがあるからこそ私たちは救いに与り、保たれ続ける。私たちを救いに導き、恵みに生かしてくださる王である。

Ⅲ.ゼカリヤが見た平和(10節)
この世の王は力、権威によって支配するが、イエス様は戦いを止めさせ、平和をもたらせられる。有名なイザヤ9:6はイエス様の平和の王としての御姿である。聖書協会共同訳では「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」、新改訳2017では「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」となる。続くイザヤ9:7「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく …万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」と締めくくられる。公平、正義、平和による支配はこの世では理想でしかない。しかし、イエス様の再臨、終末、新天新地によって現実となる。完成の日まで痛みは伴うが、神様の約束は揺るぐことはない。イエス様の平和は私たちの心を平安によって満たす(ヨハネ16:33)。

イエス様は平和の王としてエルサレムに到着された。十字架の苦難と死、復活によって罪と死を滅ぼし、勝利された。イエス様によって永遠に至る平安をいただこう。