聖書:ローマ12:1~2

(1)兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
(2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

学びつつ御言に聞いていこう。礼拝の初回は創世記2章から安息について、今日はローマ12:1~2が開かれてきた。礼拝と聞いて最初に思い浮かべる御言の一つである。ローマ人への手紙は構造が大きく3つに分れる。1~8章が完全な救いについての教え、9~11章はパウロの同族イスラエルの救い、12~16章は信仰生活の実際、実践が語られている。Cf.魚の3枚おろしに似ている…12章からが信仰生活の実践。最初に礼拝が出てくることは、礼拝こそが信仰生活の第一、中心を示している。

1.神様の愛ゆえのあわれみ
最初に「神のあわれみによって」とある。礼拝は神様のあわれみによってささげられる。神様があわれみ深い御方なのは聖書全体が示す。出エジプト34:6「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、」とある。礼拝から考えると、私たちが神様と出会う前は礼拝からは遠かった、相応しくなかった者である。神様はイエス様をこの世に送られ、十字架の贖いの死によって私たちを神の子とする道を開かれた。神の子とされて、私たちは礼拝の民に変えられた。へブル4:16「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」神様のあわれみがあるからこそ私たちは礼拝に与ることを決して忘れないでいよう。

2.神様の愛によるすすめ
続いて「あなたがたに勧める」とある。17~18世紀のベンゲルは「モーセは命じ、使徒は勧める」と言う。モーセに代表される律法は命令の遵守、使徒に代表される福音は私たちの自発的な応答を求めている。決められ、強いられてではなく、喜んで礼拝をささげる姿勢である。喜んで礼拝をささげる動力は何なのか。神様が私を愛して下さり、救いを成就して下さったという事実にある。1ヨハネ4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」。神様の愛に対する応答である。律法は規定を守ることにあるので心が伴わなくなりやすい。福音は応答を表していくことなので心を込めることが求められている。真心からの礼拝を常にささげるものでありたい。

3.神様の愛に応える供え物
喜んでささげる礼拝は、喜んでささげる供え物が伴う。礼拝での祈り、賛美、献金に始まり全てにささげる要素が含まれる。ここには「あなたがたのからだを」とある。からだとは肉体という意味を越え、私たちの存在、生活全てを指している。私たちの普段の全てが礼拝に結びついている。自らをささげた礼拝者の存在は人に感化を与えていく。Cf.信仰が明確でなかった頃に出会ったご高齢の兄弟。…この礼拝によって私たちは新たにされ御心に生きていく。週毎の礼拝は習慣、儀礼ではなく、新たに臨んでいくものである。

礼拝をささげる環境は厳しい時であるが、神様の愛に立ち返りつつ、礼拝を喜んでささげよう。