聖書:Ⅱコリント4:7~18

(7)しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
(8)わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
(9)迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
(10)いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
(11)わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
(12)こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
(13)「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
(14)それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
(15)すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
(16)だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
(17)なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
(18)わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

本年も52回目の礼拝となった。この1年新型コロナウイルス感染が拡大して、私たちの在り方、生き方も問われるが、今後の見通しは不透明である。神様はどの時代にも聖書を通して語り続けられ、真理を指し示してくださっている。この1年コロナ禍にあり、それぞれの戦いや困難があり、今も続いておられるが新しい年へ信仰と希望をいただいて歩みたい。

Ⅰ.器以上に尊いもの
私たちは土の器という印象的な言葉で始まる(7節)。天地創造の昔、アダムは土のちりで造られ命の息を吹き込まれて生きる者となった。聖書は、明確に人は土で造られた者と言っている(創世記2:7)。預言書には陶器師が土くれから器を造り出すことを、神様と人との関係で述べている(エレミヤ18:6他)。土の器は陶磁器のように高価なものではない。土の器は焼き締めた器より弱く壊れやすい。しかし、土の器にはその味わいがある。何よりも私たちは神様に造られ、神様の意思が反映され、神様に守られる尊い存在である(イザヤ46:3・4)。しかも、そこに宝を持つ。宝とは前6節にある「キリストの顔に輝く神の栄光が心を照らす」からつながり、イエス様そのものである(コロサイ1:27)。イエス様の絶大な力が現される。

Ⅱ.命以上に尊いもの
私たちも日々戦いがあるが、著者パウロは激しい戦いを経てきた(11:23-33)。イエス様の偉大な力によって守られてきたことを証ししている。四方から患難を受けても、途方にくれても、迫害に会っても、倒されても、活路を見出し守られて行く。信仰生活は苦難が無くなることではなく、壊れやすい弱い土の器である者に苦難を乗り越える力が与えられることである。単純に考えても私たちは死に向かう者であるが、「イエスの死をこの身に負う」(10節)とある。イエス様は十字架に死なれたが復活の命を私たちに現わされた。12月は3名の兄姉を天にお送りした。信仰者にとっても死はいつか訪れるが、永遠の栄光に迎えられ、天国にあって新天新地の完成を待ち望む者とされる。

Ⅲ.見えるもの以上に尊いもの
外なる人、内なる人(16節)が出てくる。外なる人は土の器、死ぬべき肉体で表され、内なる人は宝として復活と栄光のイエス様ご自身をいただいていることを見てきた。この言葉はさらに進んで、エペソ4:22-24やローマ6章の古き人、新しき人を表している。イエス様を持ち運ぶ器は汚れたままでイエス様を迎えることはできない。Ⅱテモテ2:20-21にあるように外側の優劣ではなく、内側がきよくあれば尊い器として主人に役立つものとされる。私たちが自我や欲、汚れたもの悪しきものからきよくされることによって、イエス様の輝きは光を増すことになる。外には誘惑、内には古き人の我欲を振り払って、このきよさに日々新たにされて生きることが大切である。

来る年も私たちに患難は避けられないものとしてあるだろう。もろい土の器である私たちが生きることは大変であるが、やがての日に神様は永遠の重い栄光をあふれるばかりに用意されている。神様の確かな約束に期待できる私たちは幸いである。