聖書:ルカ福音書23章39~49節

(39)十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
(40)もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
(41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
(42)そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
(43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
(44)時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
(45)そして聖所の幕がまん中から裂けた。
(46)そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
(47)百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
(48)この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
(49)すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。

新年礼拝、新年聖会が開かれてきた。私たちはコロナ禍の特別な日々を過ごしている。コロナを過小に見積もることはないが過度に恐れることでもない。注意深く歩みながら、手立ては精一杯尽くし、会堂に来られる方も来られない方も、皆一つであり乗り越えて行こう。新しい年の働きに向かっていきたい。特別なこと、変わらないことの両面があり今朝は「伝道」のテーマの2回目で予定されていた聖書箇所から語る。

Ⅰ.十字架に表される救い
「伝道」の1回目はヨナ書からニネベの救いは旧約時代であっても全世界への救いを示唆していることを語った。全人類への救いは新しい約束、新約時代に入ってイエス様が身をもって示された。その実現にはご自身の十字架による死が必要であった。四つの福音書はイエス様の十字架の前後を他にはなく詳しく描く。ゴルゴダの丘にはユダヤ人の指導者である祭司長、律法学者、長老たち、死刑の執行人であるローマの兵卒たち、多くの群衆がいた。罵る者、嘲り笑う者、好奇心だけの者、無関心な者…人間の罪が荒れ狂うような光景である。ごく少数の信者たちも無力に心痛めて見守るしかなかった。

Ⅱ.十字架の言葉は神の力
十字架の言葉は7つの宝石のように輝く。①赦し、ルカ23:34「父よ彼らをおゆるしください。」②救い、ルカ23:43「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」③愛情、ヨハネ19:26「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」④苦悩、マタイ27:46「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」⑤苦痛、ヨハネ19:28「わたしは、かわく」⑥勝利、ヨハネ19:30「すべてが終わった」⑦満足、ルカ23:46「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」となる(標題:C.H.スポルジョン)。個人に向けられた言葉(②、③)、全ての人に向けられた言葉(①)、ご自分と神様に向けられた言葉(⑤、⑥)、神様に向けられた言葉(④、⑦)とも分けられよう。十字架の言葉は神の力である(Ⅰコリント1:18)。最も固い殻は人の心だろうが、人の心をも造り変えるデュナミスの力である。

Ⅲ.十字架の場でなされた御業
心が造り変えられた実例は39節からの一人の犯罪者に見る。イエス様は死刑にされる極悪人2人に挟まれて十字架にかかられた。一人はイエス様を罵り続け、一人はイエス様に神様の姿を見て取った。自分も苦しいが、イエス様も無残なお姿であった。嵐を静め、悪霊を退け、5千人以上に食物を備え、山頂で光り輝く姿ではない。藁をもすがるという言葉があるが、実際に死の間際にはそれさえもできないだろう。それを越えて信じたこの人は、過去はどうあれ信仰の勇者であり、御国に迎えられた。47節のローマの百卒長は「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった。』」と言った。「神をあがめ」とは神に栄光を帰すると訳される。ローマの百卒長も神様を認め、受け入れた。

極悪の死刑囚が、異邦の百卒長が十字架のイエス様を信じた。救いは一人から始まる。一滴の水が合わさってリバイバルの大河となることを願う。