聖書:Ⅱコリント5章13~19節

(13)もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
(14)なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
(15)そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
(16)それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
(17)だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
(18)しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
(19)すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

最近、若いカップルが生まれてきている。イギリスの童謡マザーグースの歌で結婚式での4つの幸運の品Somethingfourが歌われている。Somethingold,Somethingnew,Somethingborrowed,Somethingblue.迷信的であるがイギリスの結婚式ではこの4つを用意するようである。今朝の5:17にも古いものと新しいものが出てくる。

Ⅰ.古いものは過ぎ去る
聖書の言う古いものとは何か。16節「肉によって知る」とあるが、人間の知識によってイエス様を知り、世的な判断をすることである。イエス様を知識として知るだけ、この世の評価のままに鵜呑みにする。また15節「自分のために…生きる」とあるが、自己中心、自我を通す生き方でもある。この世に流される生き方、自分さえ良ければという生き方が肉にある古い生き方である。しかし、聖書を通して示される、神様を愛し神様と共に生きる生き方、人を愛し人と共に生きる新しい生き方を持つことができる。それは17節「だれでもキリストにある」ことが唯一の条件である。「ある」とはキリストの内にという言葉であり、キリストと共にある、一つになることである(ローマ6:6-8)。キリストに明け渡す、委ねる、任せきることによって私たちの内に救いの業、きよめの業がなされていく。

Ⅱ.新しいものが創られる
神様の偉大な力が私たちに注がれ古いものは新しくされる。17節「新しく造られた」という神様の新創造が私たちになされる。外側の見た目は変わらないが、私たちの心と魂に神様の造り変えの業がなされる。同4:7「この宝を土の器の中に持っている。」とあるように中身が変えられる。卑しいものが取り去られ、きよめられ主人に役立つ器となる(Ⅱテモテ2:20-21)。自分のために生きる生き方がキリストのために生きる生き方に変えられていく(15節)「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」。

Ⅲ.新しい使命に生きる
新しくされた私たちにはイエス様の愛が強く迫っている(14節)。「迫る」と言う語は押し付ける、締め付ける、強いるというおよそ聖書用語らしからぬ言葉である。神様の愛の無限の大きさを私たちは思うが、その強さも無限である。パウロは気が狂う(13節)とまで言うが、総督フェスト(使徒26:24)はパウロが狂っていると言った。私たちがイエス様の愛に平気でいられるのは、浅くしか受け止めていないからだろうか。私たち一人一人になされた救いは実際には想像できないほど大きい。私たちの救いは一人子イエス様を与え尽くされた神様の愛によったのである。神様の愛をもっと大きく、深く、豊かに受け止められる者となろう。この愛を受け止めた者が、和解の務めを帯びたキリストの使者となる(18節以下)。神様との和解は神様との間に平和、平安を持つことである。

この世に向かって神様との平和を伝える。神様との平和は、人との平和、全てのものとの平和をもたらす。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」マタイ5:9