聖書:民数記21:1-9

21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来たと聞いた。彼はイスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえた。
21:2 そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」
21:3 主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、イスラエルはカナン人とその町々を聖絶した。そしてその場所の名をホルマと呼んだ。
21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

聖書通読を進めている。聖書全体を読み進めるための一助として聖書各巻の緒論を始め、その第四回となる。聖書通読は民数記辺りから辛くなってくるのではないか。カタカナの名前と部族の人数が出てきて味気なく思える。

Ⅰ.基本的なことがら
著者:伝統的な受け止めとしてモーセ(モーセ五書の第四巻)
民数記の由来は1章、26章に2回人口調査がなされたことにあるが本書全体から見ると短い。多くは40年間の荒野の旅の歴史と律法である。2回の人口調査からは荒野の40年間で人口はほぼ変わらない。過酷な環境での大人数の移動を考えれば主の守りは確かである。懲罰を越えたカナンへの旅路であることを忘れてはならない。
執筆年代:出エジプトの年代を早期説としてB.C.1450年頃。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記の順に記されたことが理に叶っている。
大区分:1~12章シナイ出発、12部族の陣営・秩序、カデシュ到着。
13~19章カナン偵察隊派遣、報告、不信仰、約40年荒野の旅路
20~36章カデシュに戻る、ミリアム・アロンの死、バラク・
バラムの惑わし、エドムを巡る旅路。

Ⅱ.基本的なメッセージ:「不信仰と失敗」1~7章
民数記でもイスラエルの民は神様の愛、大能を知りながら背き、不信仰を繰り返す。食物の欲心(11:33・34)、ミリアム・アロンによる非難(12章)、カナン征服への不信仰(14章)、コラ・ダタン・アビラムの反抗、民の反抗(16章)、荒野の旅の不平(21:4~9)、モアブ・バアルとの淫行(25章)、これでもかと神様への反逆が出てくる。人間の罪の本質の根深さである。モーセは誰よりも柔和と聖書に記され(12:3)、度重なる民の反逆にも命がけで執り成し続けた。痛恨のメリバの水のできごとが起こる(20章)。神様の命に反したモーセはただ一度の失敗によってカナンに入れなかった。人間的な力、能力に立つならばモーセさえも神様の御心に叶えないという事実は重いものである。

Ⅲ.基本的なメッセージ:「青銅の蛇を仰ぐ」21:1~9
素晴らしい人格を持つモーセでさえ裁かれたのなら、私たちの救いはどこにあるのか。21章では民の不満に神様が燃える蛇を送り、多くの民が倒れた。モーセは助けを祈り、神様は青銅の蛇を作らせ仰がせられた。イエス様がニコデモに語られた故事である(ヨハネ3章)。不満を持つ者は神様を仰がず感謝を失っていたからである。青銅の蛇を仰がなかった者は心頑な不信仰に陥ったからである。神様を仰ぐ信仰を持つなら、罪を犯していても赦しと回復がある。モーセよりもずっと足りない私たちであるが、神様を仰いで信頼することこそ救いの道である。私たちが仰ぐのは十字架にかかられたイエス様以外にはない。

荒野の民は神様から離れてつぶやき、不信仰の罪を犯して裁きを招いた。今、イエス様の十字架を通して救いの道が開かれたのは神様の愛と憐みの故である。さらに私たちは聖霊によって柔和の実を結び(ガラテヤ5:23)、柔和な心で執り成す者となる(同6:1・2)。柔和さによって勇気、力を持ってこの世にイエス様を表わそう。