聖書:列王記第一18:20~24

18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。
18:24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。

私たちが信じている天の父なる神は生きておられます。しかし、天の神が生きておられることを証明できる方法がないので悔しいです。天地万物を造られた神様を信じていたイスラエルの民はどうやって、神様が生きておられることを証明したのでしょうか。

1生活の言葉で表しました。
「主は生きておられます」は列王記上17章、18章に二回ずつあります。
エリヤ:17章1節、「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」
女性:17章12節、「あなたの神、主は生きておられます」
「主は生きておられる」は信仰告白になるはずでしたが、自己主張を強調するための手段になってしまいました。

2生活の行いで表しました。
エリヤの祈りによって雨が3年間も降りませんでした。雨が降らなかったので、すべての生き物は苦労しました。その中で一番苦労した人はエリヤ自身です。彼の祈りによって雨は降りませんでしたが、その大変な実を預言者自身が一番味わいました。エリヤは民のために苦労したのに、その大変な生活が神を証明することにはなりませんでした。祈りによって雨が降らないことは神が生きておられるしるしと言えばしるしです。しかし、このしるしでは神様が生きておられる証にはなりませんでした。

3神様自ら生きておられることを証明なさる
結局、神様が生きておられることを証明できるのは神様ご自身です。私たちが信じている神様が本当に生きておられるお方であるなら、神様自ら証明して下さるでしょう。
今日の聖書個所は神様が生きておられることをイスラエル民の前で自ら証明なさった物語です。結論的にはエリヤの神様は天から火を下し、祭壇の上にあるささげもの、祭壇の周辺の水、石まで全部燃やしました。そして、最後に3年ぶりに大雨を降らして下さいました。イスラエルの民は叫びました。主こそ、神だ、主こそ、神だ。

私が信じている神様は生きておられます。ですから、「神様!神様が生きておられることを自ら証明して下さい」神様が生きておられる証拠を見た人だけが、確信に満ちて、今度は人々にも言えます。「私が信じる主は生きておられます」