世界聖餐日礼拝
聖書:ヨハネ6:47-58
6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
10月第一聖日は世界聖餐日に当たる。プロテスタント教会の2つの聖礼典(聖餐、洗礼)の一つ、聖餐式について振り返りたい。
Ⅰ.聖餐の背景
私たちは契約と言う言葉にあまり耳馴染みがない。神様は人間との間に契約を様々な形で結ばれている。聖書の始まりから、洪水後のノア(創世記9:16)、アブラハムに繰り返し語られた(創世記15:18他)。出エジプト記19章からのシナイ山での契約は民族全体と結ばれている。この契約と言う言葉を抜きにして聖餐は語れない。エレミヤ31:31~33には、出エジプトの契約を超えて「新しい契約」が預言として出てくる。新しい契約は、コリント第一11:25「わたしの血による新しい契約です。」というイエス様の聖餐の制定の言葉につながっていく。旧約の聖徒たち、神の民と結ばれた契約は、イエス様が十字架で流された血、裂かれた肉体によって、新しい契約に置き替えられた。新しい契約はイエス様を信じる全ての人への祝福の約束となった。
Ⅱ.いのちのパン
イエス様は目に見えるものから、目には見えないものを、物質から霊的なものを指し示される。ヨハネ福音書4章では、サマリヤのスカルの女性に、井戸の水から永遠のいのちの水を表された。このヨハネ福音書6章は1~13節の5千人の給食から始まる。イエス様の元に空腹で弱った人たちがいた。イエス様は見えるパン、大麦のパン5個・魚2匹から全ての人の空腹を満たされた。肉体の食物からいのちのパンを語られた。この世のものから、神様につながる話をされている。ユダヤ人たちは肉とはイエス様の肉体そのもの、血とはイエス様が持つ血そのものとしか受け止められず、混乱している。律法では血は命の象徴で、口にしてはならない。流血に触れることは汚れでもあった。命や血に敏感なユダヤ人の性質も表されている。見えないものを正しく見る力を聖霊によって与えられよう。
Ⅲ.イエス様につながる
イエス様は最後の晩餐の席(マタイ26:26~、マルコ14:22~、ルカ22:17~)の前に、ここでも聖餐を語られている。聖餐のパンを食し、ぶどう酒を飲むものに与えられるものを明言された。1)イエス様にとどまる(56節)。イエス様にとどまるとは、イエス様につながっていることである(ヨハネ15章「ぶどうの木」参照)。イエス様の良きものに与り、養われ、実を結ぶ。2)「永遠のいのちを持っています。」(54節)、持つは現在形なので、今持っており、これからも持ち続けることを示す。3)「終わりの日にその人をよみがえらせます。」(54節)とある。終末を迎える終わりの日、救いの完成に至る中でよみがえりに与る(コリント第一15:51~53)。この3つの約束は、キリストに生きる(57節)ことに結び合わされていく。教会につながり聖餐に与っているなら、私はキリストに生きているのかと問う必要はない。キリストに生きている。
聖餐は教会の業である。教会にキリストの肢としてつながり、教会の内にあって果たされていく。儀式ではなく、豊かなもの、命あるものとして、恵みに感謝して与かろう。