聖書:ヨブ記42:1~10

42:1 ヨブは主に答えた。
42:2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
42:3 あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。
42:4 あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。
42:5 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
42:6 それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。
42:7 主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。
42:8 今、あなたがたは雄牛七頭と雄羊七匹を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、自分たちのために全焼のささげ物を献げよ。わたしのしもべヨブがあなたがたのために祈る。わたしは彼の願いを受け入れるので、あなたがたの愚行に報いるようなことはしない。あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったが。」
42:9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルは行って、主が彼らに命じられたようにした。すると主はヨブの願いを受け入れられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされた。さらに主はヨブの財産をすべて、二倍にされた。

 

ヨブ記は聖書の中でも難解な書巻と言われる。人生の苦しみについてヨブ自身から語られている。私たちの世代の神学生は、体験的ヨブ記と言われた向後昇太郎師のヨブ記講解を学んだ。9月には現校長の鎌野直人師が関東教区研修会で語られた。30年を経て塩屋と関わりながら全く異なるアプローチのヨブ記を聞くのは感慨深かった。

Ⅰ.基本的なことがら
著者:ヨブは族長の姿を持ち、真の神を知る信仰者であった。アブラハムと比肩されて良い人物である。ヨブは実在の人物、記載は真実である。しかし、ヨブ記の著者については特定が難しい。
執筆年代:ヨブの時代を族長時代とし、この時代に記されているならばモーセが創世記を記すよりも以前の時代である。聖書中、最古の書物であると言われる。年代の特定は難しい。
大区分:緒言(1・2章、散文)、対話・対論(3-42:6、詩)、結論(42:7-17、散文)。
ヨブとヨブの友人・エリファズ、ビルダテ、ツォファルとの3回の対論、その後のエリフの独論、最後に神様が臨在を表わされる。この部分が詩歌として記されており、ヨブ記は詩書に分類される。

Ⅱ.全体のメッセージ:
ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」(1:1)とある。家庭は祝され、周囲の尊敬を受けていた。正しく歩むヨブをサタン(訴える者)が神様に訴え出、許しを得てヨブの財産のみか、子たちも取り去った。ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)と答えた。ヨブは神様に恨みつらみを持たなかった。サタンは再びヨブを試み、全身に悪性の腫物を生じさせ、妻も厳しい言葉を返す。3人の友人が慰めるために来訪したが、ここから対論が始まる。友人たちの論は、神様は正しい者を祝し、悪しき者を罰せられる。ヨブの苦しみは罪の結果に違いない。論法は激しさを増していく。ヨブは自分の正しさを主張し続けた。この討論は違う苦痛をヨブにもたらした。突然に4人目のエリフが登場し、主張する(32:2~3)。エリフはヨブが自分を義とし、3人の友はヨブを不義とするが論拠を示せないことに怒る。苦しみは罪の故ではなく、神様の戒めであると言う。エリフの独論の後に神様の使信が告げられる(38:1~41:34)。

Ⅲ.聖書箇所のメッセージ:ヨブ記42:10~17
ヨブは神様の前に完全な者であると自認していた。神様の前で正々堂々論じあえるとさえ考えていた。しかし、神様が全く次元を超えた偉大な御方であるかを、その言葉と臨在を通して知り、全く打ち砕かれる。神様はヨブをただされたが、3人の友はその言葉から罪ありとされた。ヨブは彼らのために仲保者となり、ヨブの後半生は前半生よりも満ち足りたものとなったが、終わり良ければという話ではない。ここに至る苦悶は言語を絶する。

アウグスチヌスは「悪も無く苦しみも無いことよりも、悪から善を生み出すことを神はより勝ったことと判断された。」と言う。神の前にひれ伏し、謙虚に歩み、やがて神の前に出る者となろう。