聖書:ヨハネ14:1~9
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
キリスト教会では11月第一聖日は聖徒の日(永眠者記念日)とされてきた。近しい方々に集まっていただき感謝。この1年間も多くの聖徒たちを天にお送りした。コロナ禍にあっての特別な1年でもあった。祝祷後に記念の時を持つ。
Ⅰ.心を騒がせても
今朝の聖書箇所は葬儀や記念会によく開かれる。イエス様が十字架にかかられる前夜に弟子たちに語られている。「心を騒がせてはなりません。」(1節)とイエス様は言われた。弟子たちは心騒ぎ、不安の中にあった。弟子たちは何かが起こることは分るが、その何かが分らなかった。翌日起こることは、イエス様が十字架にかかられるという歴史上ただ一度のことであり分らなくとも仕方なかった。イエス様は心騒がせるなと語られるほど、平安を持たれていた(14:27)。イエス様は神様だから土台が違うと考えもする。同じ「心は騒ぐ」という言葉を12:27でイエス様は語られた。イエス様はこの時を泰然自若で迎えられたのではない。如何に大きな使命だったかを表すが、イエス様は神様に従い通された。イエス様が十字架に向かわれる姿は、私たちが心騒ぎ、不安を持っても神様に従うことを示された。
Ⅱ.道が分らなくても
弱く恐れやすい私たちをイエス様はご存知である。また、どのように進めばよいのか分らない私たちであることも分っておられる。わたしは道、真理、いのち(6節)と言われた。「道」は、実際の具体的な方法、方向に当たる。これは時代、社会、状況によって変わる。今この時の道を見出していかなければならない。「真理」は真実なもの、理念、思念という抽象的なものになる。しかし、実際のものを動かしていく基盤となる。方法や理念を私たちもこの世も必要としている。イエス様は「道」「真理」を持っておられる。さらに「いのち」を持たれている。この世は当座の道、真理を見つけ出す。この世はいのちを解明できない、いのちを持てない。イエス様の「道」「真理」はこの世のものではなく、いのちにつながっている「道」「真理」である。
Ⅲ.天につながっている
イエス様はいのちにつながる道、いのちに至る真理を示されている。イエス様は哲学、観念だけなのか。「父の家には住む所がたくさんあります。…場所を用意しに行く、」(2節)と言われた。永遠につながる天国を表している。イエス様は平安をもって、天国につながる道、天国へと歩むことのできる真理を私たちに示して下さっている。イエス様はそこに私たちを迎えて下さる御方です。イエス様は天国にあって迎えるだけの御方では無い。この道に歩めと私たちと共に歩まれる御方である。今日、先に天国に帰られた多くの方々を覚えて、この礼拝を献げている。死は冷酷なものであり、身体的な痛みを伴うものでもある。主が共に歩まれ、主が先立って下さっているからこそ、魂においては平安の内に天に移された。
牧師、讃美歌作者のジョージ・マセソンの詞「疲れしこころをなぐさむる愛よ」(讃美歌360)の別訳を説教詳細で紹介する。私たちの痛みも多い地上の歩みが神の愛によって天上に導かれていることを覚える。