聖書:マルコ10:13~1610:13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
10:14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

歴史の中で子どもたちが大切にされる社会よりも、子どもたちが大切にされない社会の方が長かっただろう。貧しい環境では一番安い労働力としか考えられなかった。日本はどうだったのかと考えるが、幕末の開国当時に来日した外国人は日本では子どもは敬われているとの言葉が見られる。ここでイエス様は子どもたちに目を止めておられる。

Ⅰ.弟子たちの怒り
イエス様の元に両親や家族が子どもたちを連れてやって来た。イエス様から祝福を受けたいとの願いからである。古今東西、親の願いは子どもの健やかな成長にある。弟子たちは叱って追い返そうとした。イエス様はどれ程忙しくされていたのか。これ以上イエス様を煩わせてはいけないという弟子たちの思いは理解できる。しかし、見るからに立派な客人がやって来たのなら弟子たちは冷たく断ることなどなかっただろう。弟子たちの行動に子どもを軽んじるような思いが感じ取れる。子どもたちを連れてきた大人たちにも、イエス様の大変さが分らないのかと言う非難が混じっているように見える。

Ⅱ.イエス様の憤り
イエス様はこの光景に憤られた。この表現はここだけである。イエス様は平常ではあり得ない怒りを持たれている。イエス様の元には誰もが近づくことができた。汚れているとされたツァラアトの人も、嫌われ者の取税人も、遊女も、サマリヤ人も、異邦人も何の隔ても無かった。子どもたちも大切にされた。イエス様は「神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(14後半~15節)と言われた。子どもたちは純粋だから、素直だから、信頼の心を持っているからであると思われやすい。聖書はそのような受け止め方はしていない。イエス様に救いを求めるためには、自らを小さい者、弱い者、何事もなしえない者であることを認めることが必要である。子どもたちの小ささ、弱さ、委ねる姿勢が神の国に入る要件となる。

Ⅲ.イエス様の愛
イエス様は子どもたちを祝福された。子どもたちを抱きとめられ、手を置いて祈られている。これは他では見られないイエス様の祝福の姿である。イエス様はこのようも言われた、「それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。『だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』」(9:36~37)。小さい者、弱い者をイエス様の御心として受け入れていくことは、イエス様を受け入れることである。小さい者、弱い者を受け入れることは、神様につながっていくことである。

子どもの尊厳を認めていくことは、子どもが自分自身を尊重していくことになり、大人になってからの道徳的態度全体に影響を与える(P.トゥルニエ)。神様の愛に生きることが鍵となる。