聖 書:ペテロ第一1:13~21

1:13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。
1:17 また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。
1:18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
1:20 キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。
1:21 あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

本日から待降節・アドベントを迎えた。今年も時の流れの早さを覚えるが、コロナ禍になって季節感が鈍くなっている。本日からの4週間、何れかの礼拝に出席いただければと願う。

Ⅰ.イエス様を待ち望む
聖書は神様による救いの歴史を壮大なスケールで描く。神様による救いの歴史の展開を考えることは理解の助けになるが、一部を強調し過ぎずにバランスよく読んでいく素直さが大切である。旧約聖書は救い主を待ち望む約束が記されている。新約聖書は救い主が到来した約束の成就が記されている。新約聖書はイエス様の誕生から始まるが、イエス様がこの地上にお生まれになったことを初臨(1st coming)と呼ぶ。イエス様が十字架の贖いの死、復活、昇天なされ、やがて再び地上に来られることを再臨(2nd coming)と呼ぶ。今、私たちは初臨と再臨の間でイエス様が来られることを待ち望んでいる。私は旧約の民と同じであると語ってきたが、考えると旧約の民と現在の私たちでは違いに気付く。旧約の民は救い主を見ず、知らずに待望した。私たちは救い主イエス様と出会い、生かされ、共にある(1:8)。再臨の主とお会いする時に初対面の感動と、旧知の懐かしさが同時にあるだろう。

Ⅱ.イエス様を待つ姿勢
1)心を引き締め、身を慎む(13節)
イエス様は再臨を待つ姿勢をマタイ24・25章で語られた。イエス様は譬えとして、主人に仕える忠実な賢いしもべ(24:45~)、ともしびの油を絶やさなかった5人の賢い娘(25:1~)、タラントを用いた良い忠実な僕(25:14~)を挙げられている。心を引き締め、身を慎むとは、神様の御心に心を向け、忠実に仕えることである。
2)聖なる方に倣い、…聖なる者となりなさい(15節)
神様は聖なる御方であるから、私たち自身が聖くなければ神様にお会いすることはできない。神様に倣うことの具体例がエペソ5:1「神に倣う者となりなさい」以降に記されている。5:5には淫らな者、汚れた者、貪る者、偶像礼拝者であってはならないこと、5:9には善意、正義、真実、光の実を結ぶ者であることが聖なる姿を示す。
3)神を信じる者(21節)
終末が近づく時代は、偽キリスト、偽預言者の惑わし、迫害が起こる(マタイ24章参照)。私たちの信仰自体が揺すぶられ、信仰を守り通していく戦いがある。「信仰と希望は神にかかっています」とあり神様に信頼し、隠れ込み、守られることができる。

Ⅲ.イエス様に迎えられる
イエス様の再臨は、イエス様に対して無関心や敵対していた人、悪に染まった人にとって恐れとなる。しかし、イエス様と共に歩み、再臨を待ち望んでいた信仰者にとって喜びの日となる。やがて、イエス様は悪を打ち滅ぼして、神様の永遠の輝きに私たちを迎えてくださる。新天新地には涙も、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもない。

初めてのクリスマスに私たちと変わらない姿でそっとお出でになったイエス様は、やがて圧倒的な姿で再び来られる。悪に対する勝利、永遠の支配の始まり、祝福と喜びがある。この日を共に喜べるように宣教の働きに力を尽くそう。