聖書:ピリピ1:27~2:5

1:27 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、
1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。
1:29 あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
1:30 かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

本日は午後に2022年度の活動計画・予算総会開催となる。コロナ禍にあって
3年目を迎える本年だが、神様の前に新しい歩みに導かれることを心から願う。まず、聖日礼拝の御言から神様の御声を聞きたい。

Ⅰ.主にある喜び
ピリピ人への手紙は、エペソ、コロサイ、ピレモンと同様にパウロの獄中書簡である。ローマ幽閉中に書かれたが、パウロの投獄はローマの圧政、迫害によってである。その原因はユダヤ人たちのイエス様の福音への偏見、憎悪であった。パウロが(1:27)「私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても」と言うようにピリピの信徒たちと引き離されていた。今、私たちも感染症という疾病で2年以上引き離されている。理由は違うが状況は同じである。しかし、この手紙は喜びの手紙と呼ばれるほど繰り返し喜びが出てくる。パウロの何が喜びなのか。パウロは(1:21)「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」と言う。生きていても御国に移されても、地上でも天上でも、永遠にイエス様と共にある喜びである。また、囚人である自分の状態がどうあっても変わらない喜びである。

Ⅱ.主にある一致
パウロは離れていても一つであることを語る(27節)。
1)聖霊によって一つである(エペソ4:3「御霊による一致を熱心に保ちなさい」)。自己中心でバラバラだった弟子たちは、ペンテコステの日に聖霊が降って一致して宣教に立ち上がった。使徒の働き全篇が記すように、初代教会は聖霊によって前進した。
2)信仰によって一つである(エペソ4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」)。信仰の成長は個人を超えて、教会全体を成長させていくものである。私たち一人一人の信仰の在り方が教会全体に益となっていくように努める。私たちが一致して戦うならば、宣教の働きは前進し、教会は成長する。

Ⅲ.主にある謙虚さ
パウロは一致を妨げる利己心、虚栄を退け、一致へと導くへりくだりに目を向けさせる(2:3)。パウロがへりくだりの模範に挙げたのは十字架のイエス様であった(2:6以下)。イエス様の生涯を表わす言葉は、謙遜、柔和、従順である(マタイ11:29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」)。続く6節以下にパウロが示したのは、イエス様の降誕、十字架という究極のへりくだりである。イエス様の謙卑と呼ばれる姿を人は持つことはできない。世の中はイエス様の虚像を語るが実像を知らない。私たち信仰者はイエス様の御姿を知っているからこそ、イエス様のへりくだりを目指していく。
イエス様の苦難をも受け止めていくものである(ペテロ第一4:12~16)。

パウロはローマで獄に囚われ、ピリピの教会も反対者(1:28)たちとの苦闘(1:30)を続ける。しかし、喜びや一致を奪うものはない。イエス様の謙遜を学ぶことは、私たちの現実に力を与えるものである(コリント第一1:18~25)