聖書:イザヤ37:30~38

37:30 あなたへのしるしは、こうである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
37:31 ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。
37:32 エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』
37:33 それゆえ、アッシリアの王について、主はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
37:34 彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──主のことば──。
37:35 わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」
37:36 主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
37:37 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。
37:38 彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。彼らはアララテの地へ逃れ、彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。

4月からの新年度も1か月半、改めて教会の2022年度旧約聖書の聖句を開く。この聖句が導かれてきたのは、30節にある3年間の過程とコロナ禍の私たちとの関連にある。1年目・2年目には何もできなくとも3年目には種を蒔き刈入れ、実った実を食べる。この聖句にあることを神様に期待しよう。

Ⅰ.ヒゼキヤの時代の危機
イザヤはユダの4代の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に神様に仕えた。その期間は50年を越える。今朝の箇所は36章から続く歴史的な危機の記述である。ヒゼキヤ王の最大の危機であり、イザヤの長い活動期間でも最悪の状況であった。アッシリア王センナケリブがユダに攻め込んだ。大国が突然小さな国に攻め寄せることは常に起こる。エルサレムも包囲され、ラブ・シャケがユダに降伏か、滅亡かと脅迫した。これは、霊的な危機でもあった。ユダが信じる神は助けにならないと脅し恐れさせる(36:13-15)。見せかけの保証をちらつかせる(36:16-17)。真の神様への不信仰へと導く(36:18-20)。現実の危機は、目に見えない悪も働く霊的な危機でもある。目に見える現実に振り回されず、冷静になる必要がある。

Ⅱ.ヒゼキヤの危機への対処
この危機にヒゼキヤはどう対処したのか。余りの出来事に気力を失う。エジプトと連合するような策を考える。軍隊を総動員して反撃する。…ヒゼキヤは衣を引き裂き、粗布を身にまとって祈るために宮に入った(37:1)。神の人イザヤにも祈りの応援を依頼した。最悪の事態であったが、ヒゼキヤがとったのは最善の行動であった。ヒゼキヤの祈りは信仰に立ち、真の生ける神様が応えられることを信じていた(37:15-20)。神様の答えは、明白にアッシリアはエルサレムには侵入できないというものであった(37:33-35)。たった一人の主の使いが、夜の間に18万5千人のアッシリア兵を撃ち殺した。センナケリブはニネベで偶像を拝んでいる時に息子に殺される(37:36-38)。人の手によらない、神様の真実による圧倒的な勝利であった。

Ⅲ.ヒゼキヤの時代の回復(30-32節)
ヒゼキヤ、イザヤの祈り、信仰によってユダはアッシリアに勝利した。しかし、アッシリアの侵攻はユダを疲弊させた。農地は荒れ、作物は期待できないが、落ち穂から生えるものが出てくる。神様は神の民を滅ぼし尽くさずに、逃れの者、残りの者を選ばれている。やがてユダも滅ぼされ、バビロン捕囚が起こる。その後、解放されたユダヤの民は再び帰ってくる。私たちはイエス様のあがないによって、救いの恵みに与った。この時代に対して逃れの者、残りの者とされている。終末が近づいている時代の中で、神様の私たちに対する期待は大きい。自らを省みて誰もが欠けや弱さを覚える。(32節)「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とある。イザヤ書には同じ語がもう1か所あり(9:7)、4つの肩書を持つメシア預言に関してである。救い主誕生と同じ熱心さで神様は私たちを終わりの時代に保たれ、立たせてくださっている。

目に見える所は厳しくあっても、全能の神、主の熱心が私たちに先立っている。この年も主に期待しよう。