聖書:哀歌5:15~22

5:15 私たちの心から喜びが消え、踊りは喪に変わりました。
5:16 冠も頭から落ちました。私たちは、ああ、罪ある者となりました。
5:17 このために、私たちの心は病みました。これらのために、目は暗くなりました。
5:18 荒れ果てたシオンの山の上を、そこを狐が歩き回っています。
5:19 主よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。
5:20 なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。私たちを長い間、捨てておかれるのですか。
5:21 主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。
5:22 あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。

今朝は聖書各巻緒論に戻る。神様は聖書の1節から語られ、聖書の1節が私たちの生き方を、決定づけることを体験する。一瞬の出会いのような出来事もあるが、各巻を知ることによって、聖書全体を捉えていく読み方の一助としていただきたい。

Ⅰ.哀歌の全体を通して
哀歌はエレミヤの著作であることは自然な受け止め方である。エレミヤの著作に明確な論拠はないが、著者は紀元前586~7年のエルサレム陥落に出会い、嘆きと悲しみの歌を残した。エレミヤは南王国ユダの末期に主に仕え、神様への背信による亡国のために涙を流し続けた(エレミヤ9:1他)。著者がエレミヤ以外であるなら神様は私たちにそのことを示されただろう。内容は預言ではなく詩歌であるので、ユダヤ人のヘブル語聖書では預言書の中ではなく、諸書(ケトビーム)の中に置かれている。哀歌は全体で5章の短い書巻である。5章がつながりをもっているのではなく、各章は一篇の詩として独立している。哀歌は5篇の詩から成っている。

Ⅱ.哀歌の説教箇所を通して
今朝の説教の箇所である5章は厳密には詩ではなく祈りである。1節から18節までは祖国が滅ぼされた痛みを赤裸々につづっている。他国に虐げられ、財産は奪われ、家族も殺されてしまう。奴隷のような扱いを受ける。身分のある者も無い者も、男も女も、大人も子どもも皆、命をつないでいくために労しなければならない。苦しみにあえぐ姿が記されている。19節からは語調が変わる。著者は目の前のものではなく、天におられる神様を仰ぐ。現状の辛さ苦しさではなく、将来の希望に目を向ける。19節は力と権威をお持ちの偉大な神様が称えられる。20節は私たちを顧みてくださいという切なる訴えである。21節は神様が共におられたかつての恵みを回復させてほしいという願いである。22節は神様のあわれみにすがっている。私たちは現実を見て行動する者だが、神様を見上げ、神様に寄り頼むものである。

Ⅲ.哀歌の嘆き・悲しみを通して
私たちは嘆き、悲しみによって時に動けなくなる。信仰によって嘆き、悲しみは無くなるのか。信仰者にもこの世の全ての嘆きや悲しみは起こる。信仰者の嘆き、悲しみは聖書に多く記されている。哀歌を歌ったエレミヤの痛みは大きい。イエス様も私たちの味わう嘆き、悲しみを経験されている。ラザロの死に涙を流された(ヨハネ11:32~35)。エルサレムを前にして涙を流された(ルカ19:41~44)。地上の歩みに嘆き、悲しみはあるが、神様の約束は別にある。イザヤは終末論的にこのように記す(イザヤ35:10)「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。」。その完成は黙示録にある(黙示録21:4)「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」。

神様は私たちをご存知であり、悲しみを喜びへと変えられて行く。