聖書各巻緒論(26)
聖書:エゼキエル1:1~14
1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
1:2 それはエホヤキン王が捕囚となってから五年目の時であった。その月の五日に、
1:3 カルデア人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルに主のことばが確かに臨んだ。その場所で主の御手が彼の上にあった。
1:4 私が見ていると、見よ、激しい風が北からやって来た。それは大きな雲と、きらめき渡る火を伴い、その周りには輝きがあった。その火の中央からは琥珀のようなきらめきが出ていた。
1:5 その中に生きもののようなものが四つ現れ、その姿は次のようであった。彼らは人間のような姿をしていたが、
1:6 それぞれ四つの顔と四つの翼を持っていた。
1:7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、磨かれた青銅のようにきらめいていた。
1:8 その翼の下から人間の手が四方に出ていた。また、その四つの生きものの顔と翼は次のようであった。
1:9 彼らの翼は互いに触れ合っていて、進むときには向きを変えず、それぞれ正面に向かってまっすぐに進んだ。
1:10 彼らの顔かたちは人間の顔で、四つとも右側には獅子の顔、四つとも左側には牛の顔、さらに四つとも鷲の顔を持っていた。
1:11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに触れ合っていて、もう二つはそれぞれのからだをおおっていた。
1:12 彼らはそれぞれ前を向いてまっすぐに進んだ。霊が進ませるところに彼らは進み、進むときには向きを変えなかった。
1:13 それらの生きものの姿は燃える炭火のようであり、たいまつのように見えた。火がそれらの生きものの間を行き来していた。火には輝きがあり、その火から稲妻が出ていた。
1:14 それらの生きものは、閃光のように出たり入ったりしていた。
聖書各巻を開いているが、哀歌に続いてエゼキエル書が開かれてきた。エゼ
キエル書も難解だと思われやすい。預言書として整っていると言える。
Ⅰ.エゼキエルの背景
エゼキエルの名は「神が強めてくださる」との意味である。祭司の出身、預言者であっても祭司としての性格を持ち合わす。紀元前597年、南王国ユダはネブカドネツァルによって侵略され、バビロンに移された民の中にエゼキエルはいた。その5年後、異邦の地カルデアのケバル川のほとりでエゼキエルは預言者として召しを受けた。22年間エゼキエルは預言者としての活動を続けた(29:17)。エゼキエルが移された際に、エルサレムには民が残り、陥落していなかった。エルサレムに残った民は危機を直視せず、聖なる都は滅びないと楽観視していた。偶像を離れ、真の神様への信仰に立ち、悔い改めてひれ伏すならば事態は変わっただろう。バビロンのエゼキエル、エルサレムのエレミヤの言葉に従わなかった王や民によって、紀元前587~6年エルサレムは包囲され、陥落する(エレミヤ52章、エゼキエル24章)。エゼキエルは亡国の緊急事態にあって警告を発し続けていた。私たちも危機の時代にある。
Ⅱ.エゼキエルの特徴
先のエレミヤ書は時系列が前後して読みづらい部分があるが、エゼキエル書は順序立てて書かれており読みやすい。内容は、
1)神様のエルサレムへの審判、裁き:1~24章。
2)諸外国(近隣諸国、ツロとシドン、エジプト)への審判:25~32章。
3)終末と希望の預言:33ー48章と大きく区分される。前半が審判、後半が回復であり終末につながっていく。この構成は他の預言書、特にイザヤ書を思い起こす。
神様はエゼキエルに3つの形で啓示されている。
1)幻を通しての啓示:1、8、10、11章;ケルビムと輪、37章;枯れた骨、40~48章;神殿。
2)象徴的な行いによる啓示:3章;巻物を食べる、4章;半身になって寝る、汚れたパンを食す、5章;髪とひげを剃る。
3)主のことばによる啓示:主のことばが確かに臨んだ(1:3)。同様の表現は50回以上。特に行いで御心を示すことがエゼキエルの特徴になる。
エゼキエルは神様に導かれ、神様の方法で使信を民に伝え続けた。私たちも福音宣教をどのように果たすのかを主に求めていく。
Ⅲ.エゼキエルを支えたもの(1章)
エゼキエルの召命の際、神様は聖なる輝く異象を見せられた(イザヤには、イザヤ6:1~8、セラフィム)。ケルビムと輪であった。きよさ、輝き、力、…神様の臨在の権威に満ちている。天の果てにまで届く大空を仰がせ、神様の御座が拝せられた。危機の時代に、異邦の地で真の神様の使信を伝えることは、大きな力が必要であった。エゼキエルが臨在に触れたことによって、エゼキエルの生涯は導かれていく。自立する「自分の足で立つ」(2:1~2)。霊によって生かされる(2:2)。神様の使信を語る者とされた(2:7)。神様の栄光の前に打ち砕かれ、完全にひれ伏すことが人を生かし、人を用いていく(1:28)。
私たちもこの時代に遣わされて行こう。