聖書:ヨシュア記24:11~15

24:11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、
24:12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。
24:13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』
24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。
24:15 主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

ヨシュアはその晩年に全イスラエルの民を再び集め訣別説教を語る。それは、罪の奴隷から解放され、「神の民」とされた私たち教会に語られている言葉である。

I.主がなされた御業を思い起こす
まず、イスラエルの民がどのようにして「約束の地」に導かれたのかを思い起こさせる。しかし、ヨシュアは自分の語りとしてではなく、「主のことば」として語る(2-13節)。その中で「わたしは~した」という表現が24回も繰り返されるが、ここにアブラハムからヨシュアの時代まで「あなたがたを導いてきたのは、このわたしだ」という主の力強い宣言が聞こえてくる。まさに、イスラエルが安息を得られたのは、ひとえに「主の御業」のゆえであった(12-13節)。
イスラエルの民と同様に、私たちも全ては「主の御業」のゆえに、罪より救い出され「神の民」とされた。しかも、神様は、私たち一人ひとりが胎内にかたち作られる前からご存知で、私たちを選んでくださったのである(詩篇139:13-16)。「今あるは、主の恵みである」ことを、いつも思い起こさせていただこう。

II.偶像を取り除き、主にのみ仕える
その上で、ヨシュアはこの約束の地で「主に仕えなさい」と語る。主がイスラエルに対して、いつも真実を尽くされたがゆえに「主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えよ」と命じるのである(14a)。それをコインの表面とすると、裏面は「あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい」である(14b)。「神の民」として生きていくために、私たちは「主にのみ仕える」ように招かれている。
そのことは、十戒の最初の二つで規定されているように、最も重要なことである。しかし、イスラエルの最も根本の問題はその「偶像崇拝」にあった。私たちの信仰生活の乱れも、礼拝の崩れから忍び寄ってくる。それほど礼拝は大切である。おそらく私たちは、明らかな「偶像崇拝」はしないだろう。しかし、日常生活の中で「神様にとってかわるもの」がないかと問われる。今一度「聖霊の光」によって心の内を照らしていただこう。

III.いのちを選びとる
私たちは「主にのみ仕えなさい」という教えを聞くと、神様が私たちの自由を縛っているように感じることがあるかもしれない。しかし、神様はどこまでも私たちのことを大切に思っておられる。「主にのみ仕えよ」というのは、私たちに「死」ではなく、「いのち」を選んでほしいためである(申命記30:15-20)。そして「あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶが良い」(15節)と民に選択をさせる。それは、自由意志の中でこそ、本当の愛を経験することができるからである。今日、主は私たちにも「わたしに仕えることを選び、生きよ」と語りかけておられる。

民たちの誓い(16-18節)もむなしく、彼らは他の神々に仕えてしまう(士師記
2:11-13)。その歴史はイエス様の時代まで繰り返される。しかし、神の憐れみは尽きず、イエス様をお送りするほどまでに、私たちに愛を注ぎ誠実を尽くしてくださった。日毎に軌道修正しながら、ヨシュアのごとく「私と私の家は主に仕えます」と、「今日」も告白させていただこう。