聖書各巻緒論(31)・預言書(9)
聖書:オバデヤ12~18
1:12 おまえは兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜んではならない。その苦難の日に大口をたたいてはならない。
1:13 おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、そのわざわいを眺めていてはならない。彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。
1:14 その逃れる者を断つために、別れ道に立ちふさがってはならない。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡してはならない。
1:15 なぜなら、主の日がすべての国に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
1:16 おまえたちがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国も絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする。彼らはまるで、いなかった者のようになる。
1:17 しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。
1:18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」主がこう告げられたのである。
聖書各巻緒論を続ける。オバデヤ書は小預言書4巻目になる。旧約聖書中、最も短い書巻であり章の区分はなく節のみで分れている。新約聖書ではピレモン、ユダ、ヨハネの第二・第三の4つの手紙も章はなく節のみの書巻である。
Ⅰ.オバデヤについて
オバデヤは一般的な名前で旧約聖書中13名を数える。預言者オバデヤのことは活動の時代や、地域などは詳しく分らない。1節から9節の内容はエレミヤ書49:
7~22に合致する。エレミヤがエルサレム陥落前後の預言者であったように、オバデヤもエルサレム陥落を体験したと思われる。オバデヤ書はエドムについて語っている。エドムはヤコブの双子の兄エサウの子孫である。ヤコブはイスラエルと名が変えられイスラエル12部族の父祖となり、エサウは兄だが傍流となった。エドムの地は死海の南から、紅海の入江アカバ湾までの岩の多い高地であった。ヨルダンの観光地、世界遺産のぺトラが首都だったと言われる。イスラエルと兄弟だったが歴史を通して敵対的、攻撃的であった。
Ⅱ.オバデヤ書の内容について
エドムはイスラエル民族の出エジプトの時、シナイ半島からカナンへの最短距離になるエドムの地を越えようとしても許さなかった(民数20:14~21)。イスラエルがカナンの地に定住した後も争いはいつも起こった。ダビデはエドムを征服した(サムエル第二8:14)。生まれは一つでも他国人のような関係であった。11節は「他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。」と記す。エルサレムが陥落し、神殿は破壊され、略奪された時にエドムは素知らぬ顔をし、12節には災難の日に喜んだこと、苦難の日に大口をたたいたとある。神様はイスラエルにはバビロン捕囚からの解放を備えられたが、エドムはやがて滅ぶ。17・18節にはヤコブの家からは逃れの者が出るが、エサウの家は生き残る者がいなくなるとある。神の民への敵対、反逆が滅びにつながることを教えられた。
Ⅲ.オバデヤ書を越えて
旧約聖書後のギリシャ支配の時代、エドムはイドマヤと呼ばれやがて国は滅びる。イスラエルとエドムは血筋でも国境でもつながっていたが仲良くなかった。イエス様が繰り返し語られたことは、第一に全てを尽くして主なる神様を愛すること、第二に隣人を自分のように愛することであった(マタイ22:36~40他)。私たちは神様の愛を知り、救い主であるイエス様の十字架のあがないをいただき、神様の愛に満たされて、自分と備えられた隣人を愛する者となる。エドムは、父祖エサウの時代から神様を認めず、神様の愛から離れ、滅びへと向かってしまった。イスラエルは神様の許にあり、例え失敗をしても回復が与えられ、再び立ち上がることができた。この違いはどれ程大きいだろうか。
私たちは神様の救いに与ることができ、神様に愛されている者として、全てを越えて神様と隣人を愛する者となろう。