聖書:コリント第二4:7~18
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
4:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。
4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
9月第3聖日は敬老感謝祝福礼拝である。荻窪栄光教会の冠である方々に心から感謝し、ますますの祝福のために心合わせて祈る。後15年で私も祈られる方になるが、あっという間の話だと思う。私たち人間がどのような存在であるかをここから教えられたい。
1.私たちを見る
この箇所で私たち自身が「土の器」(7節)という。印象的な言葉である。同じ土でできていても陶器、磁器とは違う。陶器、磁器の方が高級品で、固く焼かれて壊れにくい。土の器には素朴な味わいがあり、手に取っても温もりがある。しかし、土の器は弱く、もろく、すぐに欠けてしまう。私たちの肉体も、心もそうである。傷つきやすく、怪我や病気がつきものである。その究極は「死ぬべき肉体」(11節)に表わされている。アダムとエバの陥罪以来、人は死を免れない存在になった。しかも、「四方八方から苦しめられます」「途方に暮れます」(8節)、「迫害されます」「倒されます」(9節)とあり苦労の多い人生を生きる。これは信仰者に向かって語られており、信仰を持っていても苦難はある。信仰者にも人生の痛みはあるが、「窮することはありません。」「行き詰ることはありません。」(8節)、「見捨てられることはありません。」「滅びません。」(9節)との答が用意されている。困難そのものは無くならないが、困難を越えて行くことができる。
2.イエス様を見る
信仰の有無の違いは「この宝を土の器の中に入れています。」(7節)ことにある。神様から私たちがいただく宝とは何か。御言、聖霊、イエス様なのか、何れも考えられる。10・11節に「イエスのいのち」が繰り返され、この話の流れはイエス様自身である。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)である。イエス様が弱い小さな汚れた私の内に住まれるとは奥義と言える不思議である。A・B・シンプソンは「聖化のより深い生活は、ただ単純に、内に在ますキリストということである。」と言う。イエス様が私の内に住まわれることは、人間の知識や経験を超えており、神様の言葉としてそのまま感謝して受け止めるしかない。聖化の実践の生活はキリストに生きるということに尽きる。私の内にイエス様がおられるのなら、この世のあらゆる苦難、さまざまな問題は在ったとしても、乗り越えて行ける。
3.永遠を見る
イエス様が私の内に住まれるので「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(16節)につながる。私たちの肉体は土の器であり、やがては造られた土に還る。しかし、永遠なるイエス様を内にいただいているならば、私たちの魂は永遠につながっている。どんな苦難があったとしても、その期間は長く感じても限られており、栄光に入れられる期間は永遠である。 私たちはこの世でもイエス様を持つ、御国ではさらに隔てがない。この世の困難はあっても、私たちの持つ希望は大きい。