聖書:イザヤ1:10~20  信仰の継承(2)  雪のように白く(1)

バックストン著作集を開いてきた。今まで初期、松江時代の「赤山講話」を開いてきたが、日本での最後の説教、それまでの英国での説教を収めた「雪のように白く(旧題:雪の如く白く)」も並行して開く。

Ⅰ.ユダの汚れ
8月は赤山講話からイザヤ6章を開いた。イザヤは聖なる神様の前に自らの汚れを深く悟り、絶望を感じた。この時、聖なる炎によって潔くされ、新しく遣わされた。その際に1~5章の話をした。南王国ウジヤ王の時代に当たる。周辺諸国には勝利し、平和の下に繁栄した時代であった。ユダの人々は神様の恵みを忘れていた。彼らが送った生活は1:4にあるように罪深く、咎重く、悪に満ち、堕落した状態であった。生活の安心によって、逆に心は神様から離れた。1:5~6にある姿は足の裏から頭まで健康なところはなく、傷だらけだと言う。これはツァラト、ハンセン病の描写だと言われる。ユダの人々の生活は安定し、外見は良くなっても、内側は病み、死に瀕している。現代の日本も同じ状況にある。外側は美しくても、内側は悪しきもの汚れたもので満ちている。

Ⅱ.汚れを潔める
ユダの現状から話した。しかし、神様は18節「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と言われる。原語の緋という言葉は人の血が染みついた状態を指している。花や夕日のような美しい赤色ではなく、人の悲鳴や恨みが聞こえるような血がこびりついている。罪は人を傷つけ、自分を汚すものである。汚れた赤色に染まっていても、純白で全てを覆う雪、冷えた心身を暖かく包む羊毛をまとうように、ユダは白くされる。神様の御心は私たちが罪のままに滅びることではない。罪を赦すことを願われている。私たちが汚れたままで神様の聖さや愛を表せない状態にあることではない。汚れを潔めることを願われている。

Ⅲ.潔める方法
バックストン師は潔めのための3つの段階、方法を語っている。
1)悔い改め
自分自身を真実に見つめることである。救われたいと思わなければ神様に助けを求めない。汚れを知り、自分では処分できないと悟り、潔くしていただきたいと願い、神様の業は始まって行く。自分自身の汚れを認め、主の前に持ちだす勇気が一歩となる。
2)イエス様の血潮
ヨハネ第一1:7「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」イエス様の血潮に赦されない罪、潔められない汚れはない。
3)聖霊の働き
使徒15:8~9「そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」聖霊は光、熱、力となって私たちの良い意思を支え続ける。

私たちは神様の潔さへの渇望を持ち、生活に証しできる者となろう。