世界聖餐日礼拝
聖書:コリント第一11:23~29

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

10月を迎えた。今日から会堂では100名の礼拝をささげる。本日は世界聖餐日であり、10月は聖餐月間として各週での聖餐式を執り行う。

Ⅰ.教会の問題から
使徒の時代の教会は、イエス様が歩まれた時代から間もなく、理想的な教会であったと思いやすい。神様や福音は完全であるが、教会は人間によって構成され、不完全さゆえに教会に間違いや過ちが起こることがある。パウロが2通の長い手紙を宛てたコリント教会は問題が多かった。コリントはアテネに近く2方向への港があり、栄えた商業と生産の都市であったが、町の風紀は乱れていた。パウロは第2回伝道旅行でアテネの後、コリントでアキラ・プリスキラ夫妻と出会い、教会が生まれる(使徒18章参照)。コリント教会は活気があったが、問題は分派的(1:10~17)、不品行・逸脱(5:1~2)、その他にも結婚について、偶像に関してなど多々あった。神様にある一致や証しからは遠かった。

Ⅱ.問題から解決へ
パウロはこの手紙でコリント教会へ問題の解決を語る。さらに積極的に教会が神様の栄光を表わせるように11章は礼拝について語る。この11章以降は教会を建て上げていくことが語られて行く。当時の教会は食事を持ち寄って「主の晩餐」(20節)を行っており、その分かち合いは「愛餐」(ユダ12)と呼ばれた。しかし、コリント教会は貧しい人々への配慮が無く、愛の行為と言えなかった。コリント教会を改めるために、最後の晩餐から聖餐の意義が語られている。この聖餐は「新しい契約」(25節)とある。古い契約とはモーセの時代の契約(出エジプト19:1~6)であり、エレミヤ31:31~34に新しい契約は預言されている「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。」(エレミヤ31:33)。この預言は、イエス様が十字架で御体を裂かれ、血潮を流されたことによって成就した。ここに神様の愛が表され、この愛によって信仰者が、教会が満たされることこそがあらゆる問題の解決の基となる。

Ⅲ.解決から進歩へ
聖餐はイエス様の十字架を目の前に描きだすものである。私たちは十字架で成された救いの恵みに感謝し、尊い救いに応答して、身を献げていくものである。聖餐は単なる儀式にではなく、私たちに力を与えて遣わすものである。私たちは忘れやすい者であり、繰り返しが必要である。いつまで繰り返すのかは「主が来られるまで主の死を告げ知らせる」(26節)になる。イエス様が再び来られて教会を召し上げてくださる日まで、礼拝と共に守られる。聖餐はその上で「告げ知らせる」働きへと導く。聖餐は礼拝と共に献げられ、宣教の力となっていく。私たちが時の間に生きている者として、必要な緊張を与えるものである。イエス様の再臨を私たちの心に呼び起こさせ、目を見上げさせる。

聖餐は私たちが自己中心に生きることから、神の愛に生きる者へと導く。主の再臨へと心向けさせて宣教の力を与えていく。やがてイエス様が来られる日まで命ある聖餐をささげていこう。