聖書:レビ記23:34~43

23:34 「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。
23:35 最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
23:36 七日間、あなたがたは食物のささげ物を主に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を主に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。
23:37 以上が主の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、注ぎのささげ物を、食物のささげ物として、それぞれ定められた日に主に献げなければならない。
23:38 このほかに主の安息日、また、あなたがたが主に献げる献上物、あらゆる誓願のささげ物、あらゆる進んで献げるものがある。
23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び楽しむ。
23:41 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟であり、第七の月に祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」

ユダヤ社会には多くの祭りがありますが、その中で過越の祭・七週の祭・仮庵の祭は三大例祭として重要なものです。本日は「仮庵の祭」について考えます。

Ⅰ霊性の段階
1三種類の人:オズワルド・スミスは「キリスト者は『生まれながらの人、肉の人、霊の人』(参照・Ⅰコリント2:14~3:1)と分けることができる」と話されました。
2義認・聖化・栄化:パウロはローマ書において「義認論・聖化論・栄化論」について書いています。
3新生・聖化・神癒・再臨:中田重治「四重の福音」を標榜しました。
4ユダヤの三大祭:聖書は「過越の祭・七週の祭・仮庵の祭」について記しています。

Ⅱ「仮庵の祭」
1その特異性:この祭りには単なる歴史的な意味やキリストのみ業に関係があるだけでなく、キリストのご人格に関わるところにその特異性があります。
2その本質:聖書は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)と記しています。このことを受肉降誕と言います。つまりイエス・キリストご自身が「仮庵」そのものになられたのです。
3その理解:聖書は「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」(ゼカリヤ14:16)と預言しています。平和な世が訪れた時、人々は「仮庵の祭」を祝うために集まってくるというのです。

Ⅲ栄化の恵み
Ⅰ国籍は天にあり
私たちは、「地上では旅人であり、寄留者」(ヘブル11:13)です。やがて主は私たちを天国に迎えるために、おいでになるのです。そのことを再臨と呼びます。
2卑しいからだ
「卑しい」とは、「土の器」だということです。人生100年と言いますが、特別な人は別として、高齢者の生活は厳しいものです。健康で日々を送っている訳ではありません。むしろ、心身共に多くの病気や弱さと戦っているのが現実です。その厳しさは経験した者でしか理解することはできません。
3栄光に輝くからだ
神は「卑しいからだ」を「ご自分の栄光に輝くからだ」に変えて下さいます。何という畏れ多いことでしょうか。イエス様は「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた。」(ヘブル4:15)お方です。人は加齢と共に、からだの節々や心の隅々に、日々新しい痛みや苦しみ、苦労や心配等々を経験するものです。「栄光の主は、茨の主」です。主は喜んで私たちの重荷を受け取って下さいます。ご一緒に「輝く御国を目指して」一日一生、笑みをたたえて歩ませて頂きましょう。

「毛虫這えり、蝶となる日を、夢見つつ」(玉木愛子)