聖餐月間礼拝 信仰の継承③赤山講話⑦
聖書:エゼキエル3:1~11
3:1 その方は私に言われた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ。」
3:2 私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、
3:3 そして言われた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。」私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。
3:4 その方はまた、私に言われた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばをもって彼らに語れ。
3:5 あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ。
3:6 あなたを、そのことばを聞いても分からないような、難しい外国語を話す多くの民に遣わすのではない。もし、わたしがこれらの民にあなたを遣わしたのなら、彼らはあなたの言うことを聞いたであろう。
3:7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。イスラエルの全家は額が硬く、心が頑なだからだ。
3:8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔に合わせて硬くし、あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。
3:9 わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。」
3:10 その方は私に言われた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばをあなたの心に納め、あなたの耳で聞け。
3:11 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え。」
バックストン師の赤山講話からである。赤山時代に限らず、バックストン師はきよめだけではなく、講解的な聖書の学び、伝道の各方面について教え、実践を施してきた。健全な信仰者、健全な教会を生み出すためである。今日の説教は伝道についてである。
Ⅰ.神様の栄光を拝して立つ
エゼキエル書1~3章はエゼキエルの召命の記事であり1つの流れで読むべきである。1章でエゼキエルはバビロンの地ケバル川のほとりで幻を通して神様の栄光を見た。天的な存在のケルビム(10章参照)に、輪の形をした土台がついて行く。エゼキエルが次に見たのは、王座と人のような姿であった(1:26~28)。神様の臨在の前にエゼキエルはひれ伏した。神様の働き人エゼキエルの出発点はここにある。私たちは、神様の栄光を見ることは考えられないのだろうか。「私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:14)イエス様を通して神様の栄光が全ての人に表わされた。イエス様は私たちと共にいると言われ、神様の栄光は私たちの内に届いた。エゼキエルの体験よりも私たちの内にいただいている恵みは大きい。
Ⅱ.神様の言を受けて語る
エゼキエルは幻を見、神様の栄光の前にひれ伏した。エゼキエルが神様に明け渡し、降伏した後に、神様は声をかけられる。エゼキエルは聖霊の力をいただき、同時に神様の召しの声を聞く(2:2~3)。エゼキエルが遣わされるイスラエルの民は「反逆の家」(2章では4回)であり、その使命は神様に背いた裁きを告げるためであった。神様の言葉が巻物に記され(2:10)、その内容は嘆き、うめき、悲痛であった。神様はこの巻物をエゼキエルに食させる(3:1~3)。巻物は裁き、刑罰を記しており、苦い味で、噛めず飲みこめないものと思う。しかし、「蜜のように甘かった。」(3:3)とある。エゼキエルの時代のバビロン捕囚はやがてエルサレム帰還につながる。神様の裁きは救いへと、神様の刑罰は解放へと導くものである。イエス様の十字架における裁きは私たちの救いとなり、イエス様への刑罰によって私たちの罪や滅びからの解放とされた。
Ⅲ.神様の取り扱いを経て遣わされる
エゼキエルに神様は栄光を見せられ、ひれ伏したエゼキエルに語るべき使信を授けられた。エゼキエルが遣わされるのは反逆の家である。「額が硬く、心が頑な」(3:7)な民である。しかし、エゼキエルの顔、額をイスラエルの民よりも硬くして遣わすと言われた。神様は決して無理な要求、できない注文を出される御方ではない。私たちに求められるならば、必要を備え、準備を整えてくださる。だからこそ、私たちは従うだけで良い。行けと言われる所に行き、成せと言われることを成し、言えと言われる言葉を告げる。エゼキエルは厳しい使命が与えられたが従った。私たちもエゼキエルのようでありたい。
私たちが住むのがバビロンの地、神様に反逆する民の間にあっても、終わりを覚える今こそ、神様の元にある救いと解放を告げよう。