聖書:コロサイ2:1~10

2:1 私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
2:2 私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。
2:3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。
2:4 私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。
2:5 私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。
2:6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。
2:7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。
2:8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

本年度の新約聖書からの教団聖句を語る。私たちの今ある恵みと将来への希望を語る。

Ⅰ.キリストの豊かさ
イエス様は2千年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになり、神の国の福音を語られ、神様の愛を証しされ、十字架と復活によって救いの道を開かれた。新約聖書に出てくる人たちの多くはイエス様を見、聞き、知った。世の中の宗教には誰か一人だけに表された、その人だけが得たというものがある。イエス様は弟子たちを始めとして多くの人々によって証しされている。今も聖書を通してイエス様は表されており、身近ささえ私たちは覚える。また同時に、イエス様の内には(3節)「知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とある。それは(2節)「神の奥義であるキリストを知る」ことにつながる。奥義というと神秘、秘儀のように特別、特殊なものに捉えられるが、真実に求めるならば誰もが得られるものとして神様は備えられている。キリスト教の奥義は閉ざされていない、開かれた奥義と言える。

Ⅱ.この世の空しさ
イエス様を通して奥義は表されるが、次にこの世に目が向けられる。(8節)「空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように」と警告されている。コロサイの教会にこの世の神秘主義や異端的な教えが入り込み、神様の真実から離れさせようとすることへの注意である。生まれてさほど時間が経っていない教会に対して異端的な教えが入り込もうとしていたことは新約聖書の各所から見て取れる。教会はこの世に立っているからこそ、時を越えて、真実に立ち続けていくという戦いがある。キリストにあって満たされることこそが私たちの取るべき姿勢である(9・10節)。キリストによって満たされているならばよそ者、邪魔者は入り込めない。

Ⅲ.キリストの内にある
教会がキリストに満ちていくことが語られるが、それは私たち一人一人もキリストによって歩むことである(6節)。キリストによって歩むことは、キリストに根ざす、建てられる、教えられることとある(7節)。信仰の歩みが、「根ざす」は植物がたとえられている。キリストから必要をいただければ葉を繁らせ、花を咲かせ、実を結ぶ。「建てられる」は建物にたとえられている。土台が築かれ、柱が立てられ、壁や屋根が葺かれていく。住居や施設として拠点に用いられていく。「教えられる」は教育、訓練から来ている言葉である。教育の上に社会は成り立っていく。キリストの内にあって歩んでいくことは、命によって成長し、堅固な建物となって支え、教えられて育まれるのである。

「キリストの内にあって」と言う言葉は、霊的な意味で捉えられやすい。成長する命ある歩み、雨風に負けない強固な建物を建て上げる歩み、教えられ豊かにされていく実際の歩みである。今日という日に、これらによって歩むならば必ず実りは豊かに備えられる。個人の歩みが、教会の歩みが、教団の歩みに神様の恵みが表されていくことを期待しよう。