2023年度教会聖句Ⅱ新約聖書

聖書:ペテロ第二3:3~15

3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、
3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」
3:5 こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、
3:6 そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。

今日から礼拝堂の座席制限は無くなり、CSも対面が主になる。ここまで回復ができ感謝。新しい神様の業に期待し、主の働きを進めよう。5月第二週であり母の日を迎えた。

Ⅰ.愛する者たちへの呼びかけ
この手紙は使徒ペテロの晩年近くの筆である。イエス様と共に歩んだ日のペテロは、単刀直入の素直な性格だが、荒削りであった。年令を重ねた2通の手紙を読むと信仰と人間性の成熟を感じる。新約聖書最後の7通の手紙は、このペテロの手紙もそうであるが特定の教会や人物に宛てられたのではなく広く読まれることを意識している。3章は「愛する者たち」(アガぺトス)と繰り返し呼び掛ける。ペテロにとって教会の兄弟姉妹は全て愛する存在であり、神様の愛にある交わりがある。私たちも信仰によって互いに愛し合う存在である。

Ⅱ.愛する者たちの交わり
さらに母の日として話を続ける。お母様が元気な方も、弱っておられる方も、天に送られた方もそれぞれである。聖書箇所は変わるがローマ16章はパウロからローマ教会への挨拶状である。16:13には「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。」とある。口語訳では「彼の母は、わたしの母でもある。」と解説的に訳す。パウロはルフォスの母を自分の母のように受け止めていた。ルフォスはイエス様の十字架を背負わされたクレネ人シモンの息子であり(マルコ15:21)、ルフォスの母はクレネ人シモンの妻である。シモンはイエス様の十字架を背負った体験から信仰を持ち、シモンの妻はパウロの世話を一心に果たしてパウロが母とさえ呼んだ。私たちが神様の家族として、血がつながらなくても主にある兄弟、親子の関係が生まれていく。ペテロが愛する者たちと語った信仰者の交わりは豊かで深いものである。

Ⅲ.愛する者たちへの警告
ペテロはこの手紙を閉じようとする。ペテロが愛する信徒へと語る最後の言葉は終末への警告である。この警告は恐れを与えるものではなく、安心と励ましを意図している。
1)3-7節:イエス様の再臨を嘲り、否定する者たちが出る。自分勝手な生活を送ろうとする者たちの嘲りである。
2)8-12節:再臨が遅くされているように見える。神様は救われる者が起こされるために忍耐されている。私たちは神様の御心に従って、この時に救いを宣べ伝える。
3)13-15節:イエス様の再臨を待ち望んでいる。再臨の前に自らの信仰姿勢を問い続ける。
この時代に流されること無く、正しい緊張感を持って信仰生活を送り、私たちそれぞれの使命を忠実に果たすことが大切である。

神様から与えられている家族は、家庭の中で血のつながった家族も、出会わせてくださった家族も、教会という主の群れにあって一つにされている大きな家族もある。神様の深い御心の中で生きる私たちは、人への批判、不平不満ではなく、人への評価、満足を持てるようになろう。そこに時間がかかったとしても神様の愛によって変えられ、生かされている者としての証しが表されていく。